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長過ぎね?俺の随筆(その6)

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こんにちは。お元気ですか。私はお陰様で元気です。「は?何のお陰?」と言うのは言いっこなしで。そのあたりをうやむやにしておくのが大人というものです(えっ?そうなの?うーん、だったらまだ子供かな)。つべこべ言うのはこれくらいにして、それでは早速本文に取り掛かりたいと思います。今回のテーマは「○○できないのは案外辛い」です。

新型コロナ感染症の症状の1つとして「食べ物のにおいを感じない」というのがあるといいます。テレビをつけてたら特集としてやってました。時には、初めて新型コロナに罹患した時だけではなく、後遺症としてのみ発現することもあると言います。「食べ物のにおいを感じないことは案外辛い(つらい)」と、経験者はおっしゃってました。うーん、案外辛いかあ、その気持ち、手に取るようにわかるなあ。「○○○できないのは案外辛い、一緒だ、俺と」などと。まあ、私の場合はできないことが複数あるのですが。喋れない(悲鳴なら出せる)。体が自由に動かせない。夢を見られない=寝てるように見えるのはただ気絶してるだけで人呼んで毎晩臨死体験。深呼吸ができない(=ため息もつけない)。鼻水がかめない(菊の花粉症なのに、菊は年中咲いてる)。トイレで踏ん張ることができない(苦しいぞぉ)。寝返りができない。記憶力が怪しい(うまくごまかしてる)。うーん、つくづくたくさんあるなぁ。複数なんて言ってる場合じゃないなぁ、と思いました(思わず知らず苦笑い)。想像してみました。匂いを感じ取れない食事って?うん、食べた気がしないだろうな、と想像できます。食事は目で喰う、とは、時々テレビなんかに出てる「料理グルメ」と呼ばれる人たちが盛り付けの時によく使う言葉だけど、肝心なのはここでは目ではありません。ずばりど真ん中、味覚です。私は味覚が辛うじて生き残っているのは幸いです(自信はないけど)。味のない食事を想像する身になると「匂いこそが食事の大切な要素だ」と強調したくはなりませんか?食べ物のにおいがあって初めて心地良いものといえば、真っ先に頭に浮かぶのは「カレーライス」と「麻婆豆腐」と「うなぎの蒲焼き」と「コーヒー(食事とはちょっと言わないか)」です。他には「クリームシチュー」「ビーフシチュー」忘れてならないのが「炊きたてのごはん」「魚の煮付け」。濃い味のものもあれば薄味のものもあります。薄味のものに関しては情緒の要素も含まれてるのかもしれませんね。これらを食べる時に、においを感じなかったら、どう思うんでしょう?私は、飲み込む時に微かに喉の奥で味を感じるだけです。わかってないのとほぼ同じかもしれないです。味がわからないと特に麻婆豆腐あたりがヤバいんじゃないかと思います。ありったけの唐辛子を入れられたら、からすぎて舌べろに怪我をしてしまうかもしれません。コーヒーを飲む時のお楽しみは、あの香りです。そのお楽しみが奪われてしまう、これはコーヒーでなくてはならないという意味がありません。いっそのこと、白湯(さゆ)でもいいです。

聞こえないのは案外辛い。私もそのとおりと思います。私の場合、聞こえるし、その内容を理解できるけど、音の選択性が失われてしまっていて、周りの雑音に聞きたい音が掻き消されてしまいます。ヒトの脳は自動的に聞こえて来る音の中から、聞きたい音だけを選別しているのです。その機能を失ってしまいました。だから人ごみは嫌いなのです。ざわざわ声に掻き消されてしまいます。でも、全く聞こえないわけじゃないので、まだ助かってます。

私はしゃべることができません。しゃべれないのは案外どころじゃなく圧倒的に辛いです。身振り手振りもつらいです。でも介護士さんは何故か文字盤を中々出してはくれません(シチメンドクサイんだろうな)。首は縦横に振れますから、イエスノーだけはかろうじて通じる情況ですが、聞かれかたによっては、首を縦に振ればいいのか横に振ればいいのか、迷う時があります。たとえば「もうそろそろ時間だよ、食堂に行かないの?」と聞かれたとしましょう。「はい、行きたいです」という意味で首を縦に振っても、質問をした側は「行かないの?、という問いに対してうなづいた」と「行かないと拒絶された」、と受けとめてくれます。もしかして、逆の受けとめ方をされてるの?その確率は半々です。私は「行かないの?」と聞かれたから「うん、行きたい」のつもりで首を縦に振ったのに。このことは、質問者からみれば、すでに答えをある程度予想しているのでしょう。行かない、と言われるだろう、と。一方、もし私が首を横に振ったら、質問者は「行かないの」と聞いてあげたら「うん、今は行きたくない」と拒絶されてしまった、と受けとめるかもしれません。私は「そうじゃない、行きたい」という意味で首を横に振ってるのに。これも、もしかして逆に解釈されてるのかもしれません。これでは、首を縦に振ればいいのか横に振ればいいのかわからなくなります。これは言い方の問題とも思うことができるかも知れないけど、「あなたの言い方が悪い」と言いきってしまうのも何だかなあ、と思います、何も悪気があって言ってるわけでもないだろうに。でも、心の内で「もっと聞き方を考えてくれてもいいんじゃない?」とは思わないでもないです。

目が見えないというのも案外辛いと思います(案外どころじゃないかな?)。人は外部からの情報の90%を視覚から得てると聞いたことがあります。それがないというのは想像するだに圧倒的に辛いと思います。そうなってしまった人には、恐らくある種の決意、ある種の覚悟が生じてるのだと思います。ここで暮らしてるSSKさんと、まさ夢ができた時にまさ夢に引っ越したYKYMさんは、たぶん面識はないと思うのですが、立ち居振るまいや受け答えがどことなく似てるとは思いませんか?世代は随分違うにも拘らず、ひょっとして同一人物じゃないの?などと思ったものです。目が見えないという大きな事実の前に圧倒されてるのかもしれません。覚悟と決意がもたらすひととなり、立ち居振るまいなのかもしれません。

ピストルで撃たれるってどういうことでしょう?死んだフリするのも案外辛いと思います。身障者は、死んだフリなんてしませんけどね(冗談では済まなかったりして、あはは😁)。撃たれた人はすぐに倒れるのは何故なんですかね?子供と遊んでる時、子供がピストルを撃つフリをして「どきゅーん」などと叫んだら、自分はお決まりのポーズを取らなくてはなりません「ああ、やられた」そしてばったりと倒れなくてはなりません。でも、本当にピストルで撃たれたら、そんなヒマはありません(松田ゆうさく?なんだこりゃ?、なんて言ってる場合じゃない)。即座に倒れます。死ななきゃおかしいとでも思ってるのかな?確かにさ物凄い痛みだろうとは思います。

このように、○○ができない、というのは、なった人にしかわかりません、たぶん。想像することは出来るけど、ホントの気持ちまではわからないと思います。

○○ができない、これは生きてるうちには出来れば出逢いたくない情況です。人はものを見ると、自分でも気づかないうちに、とある作業を始めると思います。その構造とは二重構造です。「見えた瞬間に脳による監査が始まり、見えたことを感じ取った脳が見た物をイメージする。するとイメージが浮かび上がり、浮かび上がったイメージを見てるもう一人の自分がいる」という2階建ての構造です。自分の周りで起きたすべての事象を俯瞰的に見ることができる人が時々います。俯瞰的に見られることはとても大切なことだと思いますから、そういう物の見方ができる人のことを「羨ましいやつだ」と思います。認識の二重構造が羨ましさを引き出しているのです。ものを見ることができるというありがたさについてあなたはどう思いますか?

私はこのブログを書き進めるにあたって「このブログを読んだ誰かが、そのこと(毎月のテーマ)について深く考えるきっかけになればいいな」と思ってます。私の言うことがいつも正しいとは決して思いません。様々な見解があるでしょう。とにかくキーワードは「考えるきっかけに私はなりたい」です。どきゅーんと撃たれたら、ああ、やられた、みたいに反応してもらえたら、どんなにか嬉しいことでしょう。

今回はこれまでで一番の長文でしたね。最後までお付き合いくださいましてありがとうございました。自分の長文癖は、これまでの自分のSNSで薄々気がついていたのですが、まさかこれほどとは。次回のテーマは「正義って何?」です。それではごきげんよう、さようなら。