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長過ぎね?俺の随筆(その42)『案外理に叶ってるイスラム教』

長過ぎね?俺の随筆

こんにちは。お元気ですか?私は元気です。元気ですが、あるテレビCMのせいでモヤモヤが晴れません。雲に包まれながら生きてます。CM音楽で使われてるクラシックの曲名がどうしても思い出せないのです。出てきそうで出てきません。金鳥のムエンダというG殺虫剤のCMです。山本耕史さんが出演してます。女の人を抱き寄せながら「これで良かったんだ」。暗い旋律です。作曲はヘンデルです。うー、題名だけが出てこない。出てこい、もうちょっとなのに。・・・・こうして日々はただ過ぎ去って行くのでした。・・・どうでもいいか。テーマとは関係ないな。ムエンダな。ズルッ(スベッた音)。やっぱりオヤジ。

それでは今回も長過ぎる随筆を書いてみようと思います。今回のテーマは「案外理に叶ってるイスラム教」です。

 

タイトルの「案外理に叶ってるイスラム教」の「案外」という言い方は、「この場面で案外と言う?それはいくら何でも引っ掛かる言い方。失礼じゃないか?」などとお思いのことでしょう。にも関わらず、ここではこれ以上ジャストフィットの言葉を見つけられませんでした。教義のことは私の考えが足りなくてよくわからなかったけど、習慣に対しては理解を進めることができたのです。そしてこれが思ったより深かったのです。このことを「案外」と表現するしかなかったのです。これは「後期高齢者」の後期と同じです。後期?じゃあ、後期の更にその後は?・・・うう、ええとぉ。

たしかに良くない表現だけど、最善の言い方が見つけられない。結局そのまま。

ムスリム(イスラム教徒)の皆様、アッラーの神樣を理解することができなくてどうもすみません。そして「案外」なんて言ってすみません。

 

日本に暮らす一般人(俺をも含む)にとって、イスラム教とは往々にして「やつらはいつも物騒、謎の教義を持っていて、いつも過剰に攻撃的」というイメージで語られます。

イメージの素は「イスラム教過激派の存在」と、「ムスリムの生活スタイルの馴染み(なじみ)のなさ」です。

 

過激派は確かに過激で物騒な集団です。あの振る舞い、危険視されるというイメージを持たれてしまっても、ある意味では当然なのかもかもしれません。

教義をとやかく言う資格など勿論私にはありませんが、こと我日本においてはこの教義は「謎」という位置付けです。イメージで語られても、ある意味では仕方ありません。

しかし、「生活スタイルの馴染みなさ」には首をかしけざるを得ません。馴染みなき生活スタイルが、「イメージ」だけでもたらされるの?自分とは異なると言っちゃっても許されるのか?・・・ここまで書けば「ああ、傾げた首の向かう方向はそっちね」とわかっていただけたことと思います。イスラム教は世界で2番の宗教。宗教なんて、馴染む馴染まないの問題ではないんじゃないの?生活感にそぐわないなら、それはいっそのこと「そうじゃないという確証」じゃないの?それって偏見じゃん。偏見はいかんよ。

 

だけどやっぱり馴染みなき教義。やっぱり馴染みなき生活習慣。教義が正しいか正しくないは別として、我々はそういう違和感を感じてしまうインプット、そういう教育を受けて来たのです。イスラムが元来持つ、他宗教の教義を非難して止まない面も相まって、謎の集団に感じ勝ちの怖さを助長しています。

「片手にコーラン、片手に剣。さぁ、信じるか信じないか」

 

どうして生きるか死ぬかのニ択なの?なぜ、生き残った時はコーランだけなんだろう?

どうして宗教なのに過激にならなきゃならないんだろう?

どうして礼拝専用のマットを持ち歩き、1日5回サウジアラビア(メッカ)に向かって土下座しなきゃならないんだろう?

どうしてイスラム教のオンナの人は、寒くもないのに長いスカーフ(ヒジャブ)をぐるぐる巻きにしてるんだろう?もしかして巻き貝ごっこでもやってるの?

どうして年に1ヶ月だけ断食するの(ラマダン)?修行でもあるまいに

 

これら馴染みなき習慣のうち、特に目に付くのがハラールとハラムです。神に許された食べ物の総称がハラムで、これしか口にしないというものです。ハラールとは、神が「口にしてはならない」と言った食べ物の総称です。有名なのがアルコールと豚肉。ムスリム向けのハラール認証というものもあるぐらいです。さっきの続きじゃないけれど、どうしての連発になってしまうけど

「アルコールは九十八歩譲って(百歩も譲れない)まあ理解できるけど、どうして牛はよくて豚肉はダメなんだろう?」

「どうして豚肉を切った包丁や、トンカツを揚げたのと同じ油で揚げた野菜もダメなんだろう?」

「どうしてアルコール類を生成しかねない自然発酵食品もダメなんだろう?」

先程から「どうして」の行列、展覧会ですね。そうでない人もいるし、拘る(こだわる)人もいます。大抵の場合びっくりするぐらいに拘ります。アッラーさんにでも脅されてるんじゃないの?(脅されてないけど)

 

この答えについて、今日までに様々な人が懇切丁寧に教えてくれました。パキスタンから来た人、インドネシアから来た人、イランから来た人。理解できたかできなかったかはともかく、私がいだいた感想は「ふうん、そうなのか?案外イスラム教は理に叶ってる」でした。

 

例えば豚。豚は家畜です。豚の食べものはトウモロコシなどの穀物、人間と一緒です。牧草を食う豚なんて見たことありません。わらは少しは食うだろうけど、好んで麦わら帽子や藁葺き屋根を食いまくる豚なんて聞いたことありません。食糧難の場所柄で首尾よく穀物にありつけた時に「家畜より人間優先」。どっちみち禁止するなら、徹底的に根絶やし。そのほうが迫力に満ちて宗教っぽい。それを聞いて「うん、同感。理に叶ってる」。

 

イスラム教の先行宗教はユダヤ教キリスト教です。地域柄時代柄、ゾロアスター教やヒンズー教や仏教は考えなくてもいいと思います。ユダヤ教キリスト教イスラム教は、乱暴な言い方をすれば「共通の神樣」です。そんな条件の中で改宗を迫るためには、脅迫しかなかったのでしょう。うーむ、同感、理に叶ってる。少々強引な手段だけど。

 

例えばラマダンが意味するものとは、次の3つのことだそうです。

1つ、食に感謝(あたり前だけど)。ただし、妊婦と子供と病人は断食しなくても構わないらしいです。ひもじくなるとありがたみが一層増す。うーむ、同感、理に叶ってる。

2つ、時には禁欲しなくてはならないことを知る。ここでは暴飲暴食の戒めだけど、我慢しなきゃならないことはたくさんある。これを参照にして辛抱することを覚えろ。そして、陽が沈んで断食一時解除になった時(夜間は食べてもいい)、みんな一緒に集まって料理(鍋)を囲むと楽しいよ、と教える、つまり団結を知るということです。しかも1年に1回。四六時中なら別だけど、1ヶ月だけのお祭りならばアゲアゲ。うーむ、同感、理に叶ってる。

3つ、心身リセット。確かに胃袋はリセットされるし、おなかが空いたら心が綺麗になると我々の神が仰有った、と言われれば、こちらは何も言えません。そう言われればそういう気がすると理解できるのです。うーむ、どうしてなかなか理に叶ってる。

 

例えばハムンラビ法典、私の世代では「ハムラビ法典」と習いました。「目には目を。歯には歯を」おおこわ!、目を潰しに来るのか?歯をへし折りに来るのか?(俺はもう半分ない)。

だけどこれは抑制の戒めなのだそうです。目をやられた仕返しは目までにしなさい。歯をやられた仕返しは歯までにしなさい。悔し紛れにそれ以上のことをしたくなり勝ちだが、それはエスカレートを招くばかり。やがて闘いの日々が訪れる。わかってない代表者が過激派。それを聞いて「うん、同感。理に叶ってる」。

 

例えばヒジャブ。あれは「その時代の価値観を持つ中での男性の、女性に対する優しさ」だそうです。

イスラム教の布教地の多くは砂漠地帯です。ヒジャブを被せておきさえすれば、彼女を砂嵐から守れるんじゃないか?

女は貴重品だから隠しておきたい。ヒジャブでも被せて、女らしくて挑発的な髪の毛を隠そう。

俺の大切な人を、みんなの鑑賞対象にしたくない。マスクでもいいけど、どうせヒジャブを被せるから、ついでに顔を隠そう。これだと「このオンナは俺のもの」だと、世間に知らしめることになるんじゃないか、ということだそうです。今の価値観では「大きなありがた迷惑。私はあなたの持ち物じゃない」ということなのでしょうが、その時代の男の価値観とは、そういうものだったのです。それを聞いて「うん、同感。ある意味理に叶ってる、女性蔑視を差し引けば、そう言いたくなる気持ちもわからなくもない」。

 

例えば、1日5回の拝礼。キリスト教の布教地なら、建築資材が入手しやすいから、その辺に教会を建てて出掛けて拝礼すればいいのです。砂漠では容易く建てられません。ライバルであるキリスト教が、偶像禁止に対してそう出るなら、こちらとしたら「拝み倒し作戦で、マット持ち歩きで対抗しようじゃないか」。それを聞いて「うん、同感。理に叶ってる」。

 

これが人生観の違いなのです。これが価値観の違いなのです。これが受けて来た教育の違いなのです。

 

日本人は宗教に対して独特の価値観があります。いろいろな要素を含みます。イジりにくい。神妙。畏れ。ちょっと煙たい。絶対の神はなくて何にでも神は宿す。神もたまには間違える(この点が決定的に違う、イスラム諸国では神は左手で文字を書かない)。改宗するのに抵抗がなく、如何なる他宗教の祭典も受け入れる。あの世や死に直結してちょっと神妙になる。

 

イスラム教に触れる度に私はこのように思います。私達は、簡単に否定してはならない。そこには「知らない価値観」があるかも知れない。

だけど、容易く肯定してもなりません。決断までに時間がかかってもいけません。拒絶一本槍でも、迎合するのもいけません。

 

バランス感覚を問われてるのです。バランス感覚を問われるのは、人生のありとあらゆるシーンで訪れます。その人の常識も問われます。バランス感覚と常識、つまりその人の人間性を問われてるかも知れないのです。イスラム教だけで考えすぎ?

 

今回はこれでおしまいです。充分に教義に触れることなく、どうも申し訳ありません。読んで下さってる方も、このテーマを知った時、ちょっとだけ期待されたかもしれません。でも、さすがにそこまでは踏み込めませんでした。教義ではなく、習慣のお話でした。

ここで、お約束の変更をお知らせします。今までは、ここで次回のテーマを告知してましたけど、これからは「予告しない」で行きたいな、と思います。理由は「そのほうが、書いたブログの内容の余韻が残りやすい」と、ある方から助言いただいたためです。素直にそれに従おうと思います。。それではご機嫌よう、さようなら。