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長過ぎね?俺の随筆(その49)『ステルス心外』

長過ぎね?俺の随筆

こんにちは。お元気ですか?私は元気です。つい先日テレビをぼんやりと眺めていたら、去年を振り返って眺める特集を放送してて(中居問題の隙間だけど)、ノーベル平和賞の授賞式のニュースを知らせていて、日本の原爆被害者の集まりの被団協(ひだんきょう?正式名称はしらない)が授賞してました。そう言えばそうだったなぁ、でもなんで今さら?と思いますが、まぁ「えも云われぬ」タイミングがあるのでしょう(実はうっすら聞いた、え?色味の橙?空調設備サブコン大手のダイダン?それともよもやの代打?戦争関係者は受賞ふか?よく聞こえんなぁ)。若い頃私は「原爆反対運動には2つの団体がある。原水協と原水禁(原は原爆、水は水爆)、取り組み方が違うけど、どっちも正しい」と教えられたものでした。しかし、思春期に差し掛かろうとしてた私はこのように思いました「え?正しいことは二つ割り?割り箸?パキッと割るの?大人の世界ってやっぱりなんか変。世界平和の同じゴールなのに仲良くできないのかしらん」。…仲良くはできなかったみたいですね。両者にとっては心外だったろうな、今は被団協のひとつだけみたいだけど。

今回のブログは、心外にかこつけて、久方ぶり(4年ぶり?)の2回目の介護についてのお話しの「ステルス心外」です。前回のブログの予告では「相反するものはやがて似てくる」でしたけど、私の好みで急遽(きゅうきょ)入れ換えさせていただきます。

 

介護施設のホームページのブログでありながら、介護の世界についてこんなにあからさまに書き表すのは、まだこれが初回に続いて2回目です。「ブログのことを1年以上長続きさせたいと思うのなら、介護についてガッツリ書くのはやめておいたほうがいい。我々にとっても読み手にとっても身近過ぎる。おのおのに一家言あるから異論続出、自分のほうが見誤ってる場合もある(あるどころか多いと思います?)。議論沸騰して、飛んで火に入る夏の虫状態。ネタもすぐ尽きる」と忠告してくれる先輩がいらっしゃったのです(Yさんという人)。そのとおりでしたが、議論沸騰はウェルカムです。4年ぶりに書くの⁉介護関連のお仕事の皆様、お久しぶりです。

介護のプロの皆様に対して、介護について自説展開なんてするとは無謀ここに極まれり。神(神?)をも畏れぬ暴挙に等しいと思います。賛同して下さる人は殆どいらっしゃらなくて、書かれたことに対して「私はこう思う」などの異論続出だと思うのですが、同じ景色が身障者側から眺めるとどのように見えるのか、の解釈の一助になることができたらいいなと思います。反発も多かろうと想像しますが、誰も語ろうという人もないテーマだと思うから、尚一層の深い考察の端緒を拓くきっかけになれればと思います。

 

私も含む我々身障者は時々このように聞かれます。

この施設に暮らすのはどうですか?生きやすいですか?過ごし易いですか?何か困ってることはない?やってほしいことはどんなこと?不適切介護に相当すると思うことはない?同性介護を希望しますか(確かめなさいという規則ができたそう)。

これを聞かれた私は「ええっ?何を藪から棒(やぶからぼう)に?」とちょっとびっくりします。

なぜ今更そんなことを言い出したの?と怪訝(けげん)に思いますが、つまり介護関係の人達はそれほど我々身障者の暮らしを気にしてくれてるんだ、それほど考えてくれてるんだ、と言うことだと思うのです。びっくりするのと同時にとても有り難いことです。

だけど、おそらく私達身障者の答えは似たようなものではないかと思います。醒めた表情を浮かべつつ「うーん、別にぃ…特にありません」。答えたとしても「エレベーターが異様に寒い」とか、「あそこの時計が2分狂ってる」とか、「もっと美味いメシが食いたい(別に不味いと思ってるわけではない、ただ答えに詰まったから苦し紛れに言ってみただけ)」などというしょうもないことばかりです。

身障者のことを全般的にも個別にも考えてくれてるのには、感謝しかありません。しかし我々身障者は、いつの間にか無意識なままの特権階級意識に蹂躙されてしまってるのかもしれません(一個人としてあってはならないことだけど)。「私は身体障がい者だ」という奇妙な特権。

 

人間というものは、置かれた環境にだんだん慣れていってしまうものなのです。良い意味でも悪い意味でも。中でも、自分にとって都合がいいことなら尚のこと。「それくらいやってもらって当然だ。いつもやってくれてるじゃない?だって私は身障者だから不自由なんだ」なんて具合に。その一方、自分にとって都合が悪いことには口を閉ざします。私も例外なんかじゃありません。これは「甘え」だな。

これに対して、支援してくれる介護士さんに感謝するのは当然なのですが、中には感謝度合いが足りない人も、知らん顔する人も、感謝するふりをする人もいます。大抵の人は「よくわかんない」。暮らし易いかと問われてもそうでもない。しかし「そうでもない」と答えるのも何となく憚られる(はばかられる)し、何が問題なのかがわからないのです。一体このあってはならない感謝不足だとか冷たい表情の理由は何なんでしょうか?

その理由はとても意外なところにあるのではないかと思います。

 

その答えを一言で言うなら、私はそれは「本人も気付かないうちに心外に思ってる、心外な気持ちがレーダーには映らない。直接目で見れば見えるけど、事前に発見できない」からだと思います。即ちそれが「ステルス心外」です。うーん、何が心外?

 

身障者は、自分から進んで「施設に入りたい」と思ってやって来た人は殆どいないと思います。「これが私の生き方だ」と言いながら施設にやって来た人でさえも、何らかの前提があったと思います(人がいないなど)。そう言う意味では、殆どどころかほぼ全く存在しないかもしれません。「状況を考えたら、今の住まいから離れることもやむを得ないから」とか、「両親が年老いた今、もうこれ以外に選択肢はないから」とか、施設に来ようと思った理由は人によって様々だけど、本人的には少なからず嫌々入所したと思います。仕方なく入所したと思います。この施設かこの施設じゃない施設か、という個別の問題ではありません。施設と呼ばれるところに入るか入らないかという、全般的な問題です。今にして思うと、入所した当時はこれ以外には選択肢がなかった私でさえも、とても「大喜びでやって来た」という気持ちではありませんでした。少なからず「心外だ」という気持ちはありました。体験入所(いわゆるお試し)皆無にて入所した私は、入所当日に施設内を見学しながら「ふうん。こういう感じか。やっぱりどこでも大差ない雰囲気だ」、よくよく見れば大違いだけど、その時は気がつく術(すべ)がありませんでした。

「あの人さえやってくれたら何事もなく日々を過ごせるのに」と言って頼りにしてたあの人(俺は見失ったあの人だけど)から説得されたから、仕方なくやって来た、自分はまだまだできる、なんて思いながら。…違いますね。

これ、何が起きてるかというと、大きな勘違いを起こしてしまっているのです(冷静に考えればわかること)。その原因は、現実に即した状況に目を向けたくはないのです。それは「身障者であることの自覚」を問われてるのかもしれません。その雰囲気を察知して大抵の人はその時だけは無口です(お喋り三昧の今と違って)。

表面上は「この状況を飲み込んでる」ように見せかけています。だけど本心は「自分はここにいなくてもいい人だ」と思っています。ステルス心外に捕捉されてしまった人に、いくら尋ねても本心で明確に答えてくれるはずがありません。本人でさえも気付いていないから、答える時の表情がつっけんどんになってしまうのも無理はありません。暴れようとも思ってないから、「別にぃ」と答えます。つい先程の質問の繰り返しになりますが、この施設に暮らすのはどうですか?「うーん、どうって言われても」。生きやすいですか?「考えたことない」。過ごし易いですか?「はぁ、まぁ」。何か困ってることはない?「別にない」。やってほしいことはどんなこと?「特にない」。不適切介護に相当すると思うことはない?「そんなことわからない」。自分でもピンと来てないから、醒めた表情で。取り合えず乱暴だけは回避して、穏やかな人に見られたいと、顔つきはこわばったままで沈黙します。

 

それに対して、「コミュニケーションが大切だ」なんて施設独自の方法論を説いたり、スローガンを掲げたりして働く人の啓発を試みたり、施設としてはあれこれやろうとはしてくれてるんだろうけど、身障者の私から見るとどこか焦点がずれてます。それが証拠に、成果がちっとも挙がりません。身障者としては、やってほしいことややりたいことが問題なのではなくて、どうして自分が今ここで暮らすのかが「心底から」わかってないのです。やってほしいこと、そんなものはありません。いくらコミュニケーションが巧みでも、そこには何もありません。無人の洞窟に向かって「誰かいませんかぁ⁉」と叫んでるようなものです(例え居ても返事なんかしないな)。わかった顔してわかってないのです。教えてほしいというほどのことじゃないにせよ、せめて聞きたいのです「どうしたんだ?俺は?」。先程の「醒めた表情」のことですが、答えた身障者は決してうそをついてるのではありません。何かの違和感を感じつつ「特にありません」と答えているのです。それが「心外」です。自分がわかってないことがわからないのです。

 

またまた先程の質問の本心バージョンですが、この施設に暮らすのはどうですか?「自分がなぜここにいるのかが今一つ納得できない」。生きやすいですか?「なぜかは知らねど、どちらかというとそうでもない(生きにくい)、おおっぴらにはできないけど」。過ごし易いですか?「過ごしてるつもりがない、たまたまここにいるだけだ」。何か困ってることはない?「別にぃ」。やってほしいことはどんなこと?「俺にだけもっとかまってくれ、そうすれば気も紛れるだろう」。不適切介護に相当すると思うことはない?「やり方じゃなくて介護士による介護そのものが不適切、俺はやろうと思ったら自分でやれる(やれないけど)、家族による介護ならどう扱われようが不適切とは思わないに違いない。家族ならそこんとこわかってくれるはず」(はず?違うけど)。同性介護を希望しますか?「そんな場合じゃない」。これらの返事の仕方は私のことじゃありません。中途身障者として、身障者の気持ちを代弁してみました(上手く表現できたかな?)。

 

それならいっそのこと、こんなふうに考えてみたらどうでしょうか?500年後の世界の話しだと思うけど、結論から申し上げます。我々は、将来は「施設」と「在宅介護」の両方を視野に入れなくてはならないのかもしれません。

ご説明しますね。今この社会に於いては、要介護の人達に対して、人を集めるかたちの「施設」で一括で面倒を見ることを選びました。効率の観点からして当然です。だけど、そうじゃなくて全員一律に「在宅介護」というかたちを発展させたものを目指したらよかったのかもしれない、と思います。今となってはもう遅いのか、それとも早すぎるのかもしれませんが(たぶん早すぎる)。在宅介護の欠陥は今のところ甚大です。だけど、打つ手がないというわけでもありません。

確かに在宅介護の負担具合は大きいです。在宅であろうとなかろうと、介護というものには発展性がありません。よくて現状維持、普通は段々悪くなって行くものです。あまりの将来性のなさに絶望してしまいます。在宅だからこそ故、いつでも一人きりです。一人ぼっちで抱え込まなくてはなりません。齡を取ると人間というものは、やがて赤ちゃんに還って行くのです、退化する赤ちゃんへと。育児は大変です。だけど発展があります。それを楽しみに頑張れます。終わりも明確にあります。だけど介護には発展はありません。おしまいはあるけど、いつのことだかわかりません。思わず「早くおしまいになれ」と思う自分に対して自己嫌悪を催してしまいます。介護疲れを惹き起こします。私レベルの者がいくら吠えても、当事者にしか見えない問題も辛さもあります。ただひたすらに排泄物との闘いの日々。毎日毎日その繰り返し。精神健康に逆行してます。

 

だけど、介護される立場(ポジション)から言わせてもらえるなら、家族と介護士さんとでは、介護されてても安心感が決定的に違います(家に帰っても誰もアテにできない俺は例外だけど)。介護する人の負担は当事者にとっては当事者だけにしかわからない隠された大問題なのですが、家族による介護、あれは心から安堵します。あれは介護ではないのです(詳しくはラストの一行にて)。介護士による介護なら安堵しません、できません。助かるけどできません。

 

施設方式を選んだことを「正しくなかった」などとは言いません。昔の人も含むみんなで決めたことです。私もこの意見を尊重して賛成します。だけど、今の介護用品技術や、私達を取り巻く社会状況(核家族化)では、とても在宅介護には賛成できません。我々は「現状の最善とは?」を探し続ける旅に出たのです。現状では最も優れた形態が「施設」、人を集める形態です。だからあれこれ質問したくなるのです。これでいいのかな?そして「つっけんどん爆弾」に見舞われて面食らうのです。言えてるかどうかはわからないけど、今は「答えが出るまでの過渡期」だと思います。答えが出るとは限らないけど、過渡期だからしょうがない。

ならば、集めた場所(施設)では「見慣れた身障者社会じゃなくて、未体験だけど憧れのリアル実社会の模型」こそを目指すべきなのではないでしょうか?絶叫するのは仕方ない、だけど歯ぎしりするのは許されない。シーハーするのも、食事中の他人の目の前で放屁するのも許せない。つまり施設にはモラルが必要なのです。できない人は仕方ないけど、できる人は仕方なくないのです。それが「生き甲斐を抱いて暮らす」ということではないでしょうか?「今を生きる」ということではないでしょうか?「尊厳と共に生きる」(尊厳を持って生きるじゃなく、尊厳と共に生きる。だって彼は自発的にアイデンティティを持てない)ということではないでしょうか?コミュニケーションは確かに大切だけど、コミュニケーション以前に大事なものがあると思うのです。私達は、「心外なことを当たり前な世の中に変革して行こう」とする努力が必要なのではないでしょうか?年老いたら施設に暮らすのが当たり前と思う世界に。先程申し上げた「だけど打つ手がないわけでもない」というフレーズを覚えてますか?これが「打つ手」です。更に言えば、「在宅介護も選択肢、施設も一つの選択肢」の世界へと。介護ロボットの飛びっきり優秀なやつバージョンがいつの日か早く出来たらいいのに。

 

ここに至るまでいろいろ書いてきましたが、ここで結論を申し上げます。

 

家族(家族愛)は介護の敵です。

 

邪魔者どころではありません。敵です。家族による介護と、介護士による介護。やってることは同じだけど、利害関係が一致してるようで一致してません。介護は介護士さんにお任せしたほうがいいと思います(するべきです)。餅は餅屋、そのための「プロ」です。在宅介護で、親が我が子を介助して、気持ちいいのは親のほうなのです。受けてる子にもそれが薄々わかるから、罪悪感がないのです。家族による介護、あれは介護なんかじゃありません。切迫してる義務感を愛と重ね合わせただけだと思います。だけどそれは悪いことだけでもありません。介護みたいな家族愛。それが受けてて気分がいいのです。

施設の将来を案ずるものではありません。N嶋S雄さんじゃないけど「施設は永遠に不滅です」。これは本当に「不滅」です。この施設も永遠に不滅であることを願って止みません(俺はもういないけど)。不滅どころか、増加の一途を辿ることでしょう。だから我々は、将来は「施設」と「在宅介護」の両方を視野に入れなくてはならないのかもしれません。

 

書き終えた感想を率直に申し上げます。「難しかったぁ。一字一句気を使ったぁ」健常者の方にはわかり易い言葉

で理解してもらえるように。身障者の方には賛同してもらえるように。介護福祉関係の方には「そうだなぁ」と思っていただけるように。まぁ、難しかったです。出来上がり加減は、お読み下さった方に委ねさせていただきます。次回のブログは「人生を後悔したくないなら」の予定です。それではご機嫌よう、さようなら。