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長過ぎね?俺の随筆(その52)『年寄りは年老いてさえなぜ生きる』

2025年6月1日
長過ぎね?俺の随筆

こんにちは。お元気ですか?私もお陰さまで元気です。しかし、「俺も齡老いたもんだなぁ」というとんでもない実感に苛まれ(さいなまれ)続ける毎日を過ごしてます。実感です。実感が内面から湧き起きるのです。実感が周囲から沸き起こって来るのです。わきおこるの使い分け、わっかるかなぁ、わっかんねえだろーなぁ。…これにピンと来た人は、はい、あなたも年寄り認定。今回のテーマは「年寄りは年老いてさえなぜ生きる」です。

 「おまえなんかまだまだ未熟者じゃあないか」とあの人(誰?)には言われそうなのですが、私もこんなにも年齢(66)を重ねてしまうと、至極不本意ではあるが、ある程度は「死の覚悟」をしなくてはならないと思います。実は私は、今で言う「終活」を一人静かにやってたのですが、ほぼ予定通りに終えました。家も居抜きで売り払ったし(居抜きとは、暮らしていたまま家財道具いっさい付きで売却すること。リサイクル業者には宝の山)、全ての生命保険も解約したし(思いのほか大変だった、でも保険金支払いを毎月継続してたから結果オーライを予見してた)、各店舗固有のポイントカードも解約しました(枚数だけやたら多くなり勝ち、キャッシュレスカードはまだない時代)。生前贈与で毎年限度額の100万円(今は110万)を息子3人名義の銀行口座に移し続けて来ました。残金を分け与えても無税の残額になるその日まで続けました。数年費やしました。後から気がついたけど不動産を計算し忘れてて、慌てて加算修正しました。最大のイベントは位牌製作したことです。まだ存命の母親より、自分のほうが先に死んでしまう確率が高いと思ったため(やられてる場所が脳で再出血しやすいから)自分用と母親用の2本作りました。兄弟はないし、頼る奥さんも元奥さん(残念!)。3人の息子は3人共あてにしてはならないと思ったためです(病気のため)。各々の亡骸と一緒に燃やしてくれるように位牌自体に貼り紙もつけました。お寺に預けるという手もあったのですが、燃やすことにしました。位牌なんか残しても拝む人もないと思ったためです。多治見市の老人ホームBにいる母親と、その一人息子である私自身に対し、有償で生前戒名も和尚さんに命名してもらいました。直葬(骨上げも葬式もなし、遺骨はまるごと産業廃棄物)なら手っ取り早かったんですけどね。死んだ後にも関わらず葬式ありなんかに拘るからこその騒動だったと思います(ゴミ扱いはあんまりだ)。
 死後13年の永代供養費と墓じまいの費用も先払いしました。その他にも、遺体の引き取り依頼と代金と保管先や、月命日(つきめいにち)と盆暮れと法事代わりの読経や、墓への戒名の刻印や、葬儀のキックオフと通夜の取り止めや、灯明不断の習わしからの解除など様々あって「まあ次から次へと出るわ出るわ」の状況でした。高齢の母親が逆縁(順序逆転)の悲しみにうちひしがれながら、初めて見た私の位牌を抱き締める、という光景を想像したくなかったし、息子たちに「いざという時に慌てさせたくない」という気持ちがあったのです。

 根拠などありませんが、私はこのように思います。これまでの自分の経緯からすると、罰当たり(ばちあたり)極まりない私は「肉体的に苦しみながらベッドの上で死んで行くタイプの人」なのでしょう。だけど、私が苦しむか苦しまないかは知らないけど、どうして人間というものは散々老化した挙げ句の果てに死んでしまうのでしょうか?なぜ老化は起きてしまうのでしょうか?老化と老後は別物なんでしょうか?中年期→壮年期→老年期と徐々に劣化した挙げ句訪れてしまった「老化」の果てに「老後」があるのでしょうか?老後の果てに死は直結してるのでしょうか?死んでしまうことは、我々人類が進化した結果やっとのことで獲得できたものという考え方があるそうです。私もそう思います。このあたりは、私の過去のブログ「寿命って何?」に詳しく書きましたから、よかったらご参照願います(あくまでも私の考えに過ぎませんが)。その結論は「生体じゃなくてDNAこそが生命の主人公。DNAはただ自分をリフレッシュして、己のことを世代を越えて最新状態にしたいだけ。生体なんかどうなろうと知ったこっちゃない。生体なんか死んでも構わない。目的が全てに優先する。だから生体は用が済んだらさっさと死ななきゃならない。そうでないと自分がリフレッシュできない。生体はただの空飛ぶタクシー。乗り降り自由で乗り捨ても可」理解していただけましたでしょうか?
 「わざわざ獲得した」って?必要事項?もし私が微生物だったら、病気で死ぬなんてなかったのにな。寿命なんてなかったのにな。今からでも遅くない、私は微生物になりたい(昔、私は貝になりたいという映画があった)。
 …単細胞になりたい?
 …頭の中だけはもう立派な単細胞になってたりして。

 この時、死んでしまうという「結果」だけが注目されるべきなのであって、老化によって苦しもうがもがこうが、「老化して行くという名の過程や、老後という名の未来」なんて何も関係ないと思います。老化した先に老後はあるけれど、老後が自分の人生に直接及ぼす影響は案外小さいと思います。つまり「死とは老化の成れの果ての終着駅」ではなく、「死とは生命の必然」だと思います。しかし、老化の影響のほうは小さくはありません。健康がだんだん失われて行くのです。恐ろしいです、勿体ないです。平穏無事であってほしいです。老化とは、現象的には経年劣化に違いないけど、心象的には生命続行してほしくない理由が何か誰かのどこかにあると思うのです。いきなり死ぬのも何だから、徐々に使いにくそうにしようと誰かが企んでる。続行してほしくはないと思ってる。その誰かとは「DNA」かもしれないなと思うのです。死とは、死ななきゃならないから、なるべくしてそうなったと思います。
 老化に伴い人は、筋力低下・内臓不調・局所痛(膝・肩)・五感鈍化・などがみられて、ふつうに暮らしてる人(健常者)にとっては大問題なのでしょうが、一歩下がって眺めるとそれは、身体的には大変な問題ではあるが、精神的には大した問題ではないと思います。私が中途身障者だから、という一面もありますが、ただそれだけでもないと思います。私も医者から余命宣告を受けた身分なのに、もう2倍以上も生き残ってます。死に忘れました。

 人はなぜ「老化」するのでしょう?なぜなのかは私にもさっぱりわかりません(わかったらノーベル賞)。ならば、人にはなぜ「老後」があるのでしょう?これだったら私にも考えがあります。私が思うに、老後の存在理由は少なくともふたつあると思います。
 まずは老後の理由1番目は「子育て」。
 鮎や鮭は卵を産んだらすぐ死にます。キリンや馬はどうでしょう?馬は産み落とされた直後に立ち上がり、目も満足に見えないだろうに(あくまでも想像)母乳を求めて徘徊します。産んだ母馬も母乳を与えます。進化した子育てとも言えるでしょう。ただしこの時祖父母は関係しません。
 つまり、鮎や鮭や馬やキリンの祖父母も両親も新生児とは何も関係しないけど、馬やキリンの両親は子育てするのです。
 ならば、猿はどうでしょう。猿は、自分が産んだ子と同時進行で、見知らぬ空腹そうな子にも授乳をすることがあるそうです。母親がもし死んでしまっていれば、おばあちゃん猿が代わりに子育てします。ほほう、できるんだ。だけど、めくら滅法というわけでもありません。おばあちゃん猿になると、血縁関係がない子猿には見向きもしないと聞いたことあります。人(人?)によって食べ物も与える。人(人?)によっては与えないかも知れないけど、これも立派な子育ての一環だと思います。
 人間の場合は、子供を産んだ両親ばかりか、祖父母共に生き残ってる可能性が高いです(例外もあるけど)。そしてせっせと頼まれもしないのに、あれやこれやと出産を終えた自分の娘にちょっかいを出したがります。これも子育ての一環だと思います。
 そして人間を加えた「高等生物」と呼ばれる者たちの子供は、大抵の場合「未熟児」状態で生まれて来ます(時々本当に未熟児だけど)。生まれた子供を育て上げる自信があるのでしょうか。
 そうしたらおかあさんには「妊娠期間が短くて済む」というメリットもあります。妊娠期間は生命の危機なのです。体を動かすのも億劫(おっくう)で、栄養分も奪われまくりです。育ち過ぎても頭がおかあさんの骨盤を潜り抜けられません。未熟児で生まれた子供も誕生早々、生命の危機の連続ですが、そこで登場するのが祖父母です。緊急時の知見があります。子育てそのものは両親がやりますが、子育ての補助を祖父母がするのです。先程も申し上げましたように、馬や牛やキリンなら生まれてすぐに立ち上がりますが、人間の場合はそういうわけには行きません。燕なら巣立ちまで3ヶ月ぐらいでも済みますが、人間なら走れるまで数年かかります。食糧の調達もままなりません。だけど、すぐ側に緊急時の知見がある人がいるから、高等生物であればあるほど未熟児状態で生まれて来るのです。つまり老後がある理由の一つ目は「出産支援や食料調達の子育て援助」と思います。
 ふたつ目は「伝承」。これが今生きてる高齢者の仕事です(ジブリ映画に出てくる長老がこれ)。私も若い頃には思いもしなかったことですが、老齡の人間には起きた事実を伝える義務があるのではないかと思います。
 人間でも動物でも、あかちゃんは可愛らしいですね。生まれた子供の見た目はどんどん可愛くなりました。人間の赤ちゃんが可愛いのも、仔犬が可愛いのも、子猫が可愛いのも子豚が可愛いのも、すべて「彼等は可愛くなろうとして可愛くなった」と思います。母性愛の誘発のためです。成長し終わって、ルックスがあかちゃんから見劣りしても尚続けます。「首を傾げる」あれはあかちゃんの真似だと思います。それが意図することを察知して、それをしたのがおっさんなら「おっさんのぶりっこ、気持ちワルー」うら若き女性なら「あざとい女」若くはない女性なら「勘違いも甚だしいオバサン」(酷い言い方ごめんなさい、失礼しました)。でもそれが事実です。
 最初は産んだ親の姿もなかった。次に母乳が貰えた。次に両親揃って餌を取って来てくれる。とうとう、両親も両親の4人の祖父母もこぞって子育てしてくれる。目を引きたい。食べ物がたんまりほしいから。食べ物がたくさん獲れる場所はどこだ。俺は知らないが経験豊かな者なら知ってるに違いない。こうしてだんだん生き物の寿命は伸びていきました。一般的に、おじいちゃんよりおばあちゃんのほうが長生きなのは、おばあちゃんが子育ての代行に長けてるからだと思います。老兵のおっさんはただ消え去るのみ、なんてね。

 年老いたら、わからなかったことがだんだんわかる気がする、見えなかった景色がだんだん見えるような気がする、という実感があります。本当ですよ。私でも若い時分に予告されたことがいっぱいありました。例えば「人生は一度きり」。でも、鼻で笑ってました「ふふん、確かに一度だけど、俺はまだ若いから、後で考えれば良い。若さとは可能性だけ信じること。そもそもそんなはずがない」。でも、ありました。一度きりです。それによって独自の人間感や独自の死生感が生まれます。ただし、独自です。他人には通用しません。だけど気持ちいいです。悟った気分です。気分だけだけど。悟り(覚り)の境地とはこういうものなのか、まだ疑似体験に過ぎないが。このベクトルで進みさえすれば、やがていつかは到達できるかも知れないと思うのです。それが「老いる」ということだと思います。

 次回のブログの予定は「仏様の順位表」の予定です。それではご機嫌よう、さようなら。