こんにちは。ご機嫌如何でしょうか?私はまぁまぁそこそこには元気です。体は不自由だけど、心の内には不平も不満も不調も特にありません。「こんな目に会うなんて酷すぎるぞ!」という異論なんて、言わなきゃ言わないでそれで済むけど、言い出したらキリがありません。こんな目、と名指しされた仕打ちも、端(はた)から見ると仕打ちなんかじゃなくて、当たり前のことだったりするものです。これは自己チュー?自分中心に世界よ廻れ?うん!そうに違いない。自分のことしか考えてません(ギクッ!)。人はなぜ、とかく不平不満に溢れがちなんですかね?幸せ度合いが足りないとでも思ってるんでしょうか?たぶん思そのように思ってるけど、それは身のほど知らずとしか言い様がありません(実は全部俺の事)。身の程知らずにかこつけて今回のテーマは「摩訶不思議な心の動き」です。
またもや音楽バンドの話です。「やれやれ、またか」などとお思いでしょうが、ここはしばらくお付き合いください。
学生時代の私が音楽にうつつをぬかして入れ込んでたことはかつてのブログでも書きました。本気で「プロになりたい。プロになれたら幸せになることができるのに違いない(今はそうとは思わない)。俺には才能も腕もある(今はそうとは思えない)」なんて思ってました。でも、表明して来たとおり、それは何ともなりませんでした。結果が全然出ませんでした。
しかし後から考えてみると、最も「何とかなるかも知れない」という世界に足を踏み込みかけたのは、「自分の専門職の楽器であるギターを弾く本命のバンド」じゃなくて、新たに創設した「つきあいで専門外のドラムスを叩くバンド」のほうでした。私は「バンドの掛け持ち」をしていたのです。つきあいとは随分な言い種(いいぐさ)ですが、掛け持ちの立場だとこのように言ってしまうのも無理もありません。二つとも全力投球なんてかわた○絵音さん以外はまず無理で、自分では区別なんてしてるつもりなんてないけど、どうしてもそこには「力加減の釣り合い」という作用が働いてしまうのです。気合いに溢れてたのは、ギターを演奏するバンドのほうで、ドラムスのバンドのほうは、解散してしまう時さえも惜しくもなんともありませんでした。だけど振り返れば、次から次へとドラムスのバンドのほうだけにはチャンスが舞い込んで来てました。頼んでもないのに対バンの挑戦状を受けて、大きなライブハウスへ出演したこともありました(ライブハウスの出演手数料は相手持ち)。大学祭へのお誘いにも出ました(安くはあるが出演料あり)。地元密着型のスーパーマーケット開店の賑やかしもありました(我々は入り口固定・道路上はちんどん屋)、イベント会社からの依頼によって自治体の盆踊り大会のカラオケステージのゲスト出演もありました(ついでに審査員)。既にプロ顔負け。俺達のことをどこで知ったんだろう?普段の活動は場末のステージだし(観客は2~3人)、コンクールに応募したこともないのに。私は「素人同然の俺がいることだし、方向性は滅茶苦茶。このバンドは下手くそだ」、と思ってたけど、我々は案外うまくて、気づかなかったけど案外楽曲がみんなに響いたのかもしれません(かつて俺には響いたけど)。
しかし、先ほども申し上げましたように、バンドの創設者兼リーダーの私には最初から最後まで全く「その気」がありませんでした。今回はこれについて考察してみたいと思います。
実は私は、太鼓(ドラムスの通称)を叩くバンドのことを、「ま、やっつけとくか」なんて、積極的に取り組むという程のことでもないと思っていたのです。バンドとしてはわずか1年半の活動期間でした。1年半なんてあっという間の出来事、後から思うとまるで夢の中にいるような日々でした。仮にも「創設者兼リーダー」でしたので、もっと率先する姿勢を表してもバチは当たらなかったと思うのですが。人に「人生を賭ける意気込みで勝負しろ」などと迫っておいて、まさに生半可な気持ちでした。
バンド成立の条件は3つ。
1、寄せ集めメンバーゆえ、お互いの音楽の好みが全然違うから、プロのコピー曲は練習でも本番でも一切やらない。
2、オリジナル楽曲しかやらないが、出来た楽曲はすべて作曲者が歌う、ただし俺は作曲しないし歌わない。
3、キーボードも含めてアレンジはすべて俺、弾きかたも指図する。プライドが傷付くというなら、このバンドの話はなし。
その当時は「バンドの掛け持ち」なんてまだ珍しくて、あったとしても「絶対数が不足し勝ちの太鼓がもう一方のバンドでも太鼓で掛け持ちする」という程度でした。楽器が異なる掛け持ち、なんてほとんどあり得ませんでした。私がこのバンドを呼びかけたのは「あいつらの思い出づくり」のためでした。せっかく音楽クラブに入ったのに、
「音楽の方向性が合わない(偉そうに)」とか
「あんなにへたくそな弾きかたをするやつとはいっしょにやりたくない(偉そうに)」とか
「その楽器はもう間に合ってる(偉そうに)」とか
「仲間にするには人間性がどうのこうの(偉そうに)」とか言って、
バンド組成からあぶれてしまったやつらです。大学も3年生になって、もうこの先々バンド所属の見込みはほとんどない。だけど、見殺しにするには彼らが可哀想。せっかく音楽クラブに入ったのに。じゃあ俺が集めてやろう。素質無視、音楽性無視、嗜好性無視、集まることだけが目的で集まったのです。何はともあれやらせてみようじゃないか。そうしたら彼らの学生時代の良き思い出になるかもしれない。・・・ちょっと見は良い心掛けですが、ものすごく上から目線です。そしてさらに、ものすごく生半可ですよね?人の人生を左右するかもしれないのに。
まず最初に、大学の「西日本の付属高校」から来たやつに声をかけました。本人談によると、エレキギターさえ触ったこともなくてかなりフォークソング寄りなやつでした(ルックスは南こうせつに似てるし、実際に音楽的にもかぐや姫に心酔してた)。特に仲良くしてたわけでもありません。学食などですれ違った時に「やぁ、元気?」と手を挙げる程度でした。関西人、左利き、大きな会社の社長さんの息子で仕送り充分、3食外食バイトなし、一卵性双生児つまり双子の片割れ(ある日彼のアパートを訪ねた時彼が二人いてびっくりした・お兄さんは画学生)、変わり者の条件コンプリートです(偏見・ごめんなさい)。大学にはその当時2つの付属高校があって、東日本には大仏で有名な茨城県牛久市、西日本には兵庫県姫路市だけにあります(今は東京都文京区の大学開校の跡地に3つ目が出来た、大学キャンパスは移転)。同じように付属高校なのに大学進学するやつの比率には大きな差があって、50人の第一外国語のクラスの中に、牛久のやつが5~6人いるとしても、姫路のやつはいないか多くても1人か2人でした。高校野球甲子園大会の影響で姫路は全国的に有名(今も時々出る)だったけど、キャンパスで姫路から来た新入生を探すのは一苦労します。
そんな彼は姫路のやつでした。左手で掻き鳴らすギターはお世辞にも「上手」とは言えませんでした。歌がうまいというほどのこともありませんでした。かと言って下手でもなく至って普通。声がいいということもありませんでした。人並み外れた声量、ということもありませんでした。太ってはいないけど背も低く(ミュージシャンたるもの痩身長躯たるべし、という風潮があった、今でもある)、ルックス的にお世辞にも「かっこいいやつ」とも言えませんでした。服装もボーダー一本槍で「センスの良いやつ」とは言えません。彼は「あまりにも目立たない歌い手」でした。
だけど、バンドを組む時に私は既に気が付いてました。彼が作る楽曲だけは、聞けば聞くほど素晴らしいものだったのです。「バンドを組もう」というきっかけもそこにありました。1年生の時に行われた新入生お披露目会で披露した彼の自作曲が、私にはインパクト絶大だったのです。会場も一瞬静まりました。「何か持ってる」。それが忘れられませんでした。曲作りの世界観が違い過ぎました。「桁違いに次元が違う」とは、ああいうことを言うのでしょうか。私はひとり静かに「もともと持ってるものの違い(すなわち音楽的才能の違い)」を痛感せざるを得ませんでした。だけど何食わぬ顔でした。とある理由で認めたくなかったのです。その理由を要約して言えば「桁違いを認めてしまうと、音楽は才能と認めてしまうことになってしまって、ギター演奏技術や作曲技術に全てをつぎ込んで来た私が報われない」。それに加えて私は「上から目線」過ぎました。ええ、「報われない」なんて自分勝手ですね。ご都合主義です。振り返る身分になって、すなわち解散後5~6年過ぎて、初めて気がつくことができました(遅すぎたとほぞを噛む)。
姫路のやつがサイドギター、そいつの知り合いの青森の木造(きづくり)から来たベース弾きが参加して、ベースが連れて来た函館生まれのリードギターが参加して、リードギターが学食で知り合った松江出身のクラブ会員じゃない1年生のキーボード弾きの女の子(つまり一本釣?羨ましぃ)が参加して、みんな作曲できる、そこそこ歌える。これでバンドを組めるメンバーは揃いました。太鼓を叩く予定の私は、決して「上手な太鼓叩き」ではありませんでした。特にスネアとシンバルの音色、タンとシャーン。一番大切なところですが、何かが違うのです。だけど何が違うのか見当もつきませんでした。たぶん単なる練習不足だと思います。音色の他にも私にはドラムス奏者として3つの大きな欠点がありましたが、取り敢えずリズムだけは正確に刻むことができたから、そのあたりだけは見切り発車でした。いくら「かき集めたメンバー」だからといっても、見切り発車はあまりにもいい加減だと思います。練習くらいしろ。タンとシャーンだろ?大事じゃん。
ついでに、またわき道に逸れますが3つの大きな欠点とは、
1・ハイハットは踏んだまま。少しはできるけど思うようには開けない。(上下に重ねたシンバルを左足で開閉するのがハイハット、叩くならクロスした右手)
2・裏打ちができない。時々やりたいけどできない。必ずもたつくか走る。(裏打ちの事例としては、裏打ちとわかりやすいユニコーンの大迷惑、プリプリのダイヤモンド、爆風スランプのランナー、X-JAPANの紅、ホワイトベリーの打ち上げ花火、これの作曲者であるジッタリン・ジンの全曲、わかりにくいけど鉄腕アトムやアンパンマンの主題歌、など)
3・ロールができない。ドロロロとスネアすなわち小太鼓連打。まぁ消防音楽隊と自衛隊吹奏楽団ぐらいしかやらない。コツがあるらしいけどどうやってもできない。
話しを元に戻します。バンド組成はできたけど、自分がバンド運営に専念することができない時も有ろうから、という理由で、私はベースの男をサブリーダーに指名してました。ばらばらになり勝ちなこのバンドを彼はよくまとめてくれました。彼の努力無くしてこのバンドは成立しなかったでしょう。しかし、大学卒業を間近に控えたある初冬の日、私と彼は大喧嘩してしまったのです。それは私の心ない一言のせいでした(心ないと自覚してる)。部の後輩たちが、卒業して行く我ら4年生のために「追い出しコンサート」略して「追いコン」を計画してくれました。だけど、それを知った私は、メンバー全員に向かって「俺はもう1つのバンドがあるからいいけど、おまえたちはどうする?」と言い放ったのです。「いいけど」?「どうする」?そこには浮き上がる言葉がありました。「軽視」そして「解散」。こういう言い方をしてしまったことにはわけがありました。ギターのバンドのほうで「もうこのコンクールの応募が最後。入賞することができなかったら解散しよう」と決めてたコンクールの2次審査で1週間前に落選しました(2つ受かって4つ落ちて2つ棄権、その落ちた1つ)。リーダーからの解散宣言はまだ出されてませんでしたが、私は「もう名古屋に帰ろう。ギターを置こう」などと、死に場所を求める、追いコンはその絶好の機会、という心境だったのです。
その一方、次から次へとチャンスが舞い込んでたバンドのほうは、私は「あれっ?何だか機会がある」と思ってましたが、その他のメンバーは「バンドをやるとはこういうものなんだ」と思ってたみたいです。そして、卒業後も定職に就くこともしないで、私と一緒にバンド活動を続けるつもりだったみたいです。私に言わせれば「無知の極み」サブリーダーに言わせれば「夢は続く」。そして喧嘩です。
「何様だ!その言いぐさ」「やめだやめだ。もう何もかもおしまいだ。もう4年生なんだからやめ時だ。今決めた。いさぎよく引き下がる。おまえも俺も。このバンドは俺のものなんだから、付き合えよ」。俺のもの?
一般学生ならその頃は、就職活動で毎日リクルートスーツに身を包み、あちこちの街角を闊歩していたのですが、音楽クラブに所属する我々は誰ひとり就職活動なんてしてませんでした(俺だけは皆に内緒で時々やってた、だから忙しかった)。そんな時もサブリーダーがバンドをまとめ続けてくれました。思えばあれが今生(こんじょう)の別れでした。あいつ、今頃どこで何してるかなぁ?
たかがバンドの音のために俺個人の力なんて全然関係ないじゃん、と思いましたが、だけどバンドなんてそんなもの。大有りでした。私の存在理由は、「バンドの推進力」ではなく「バンドの方位磁石」だったのです。方向が正しくて運を掴めたら、あるいは成功することができたかもしれません。そしてその針の方向は、私ひとりがいるのといないのとでは全然違います。違って来るのではないかと薄々脳内だけでは気がついてたのに私は、覚悟と決意が足りませんでした。
好きなものはただ「好き」に止めておくほうがいいと思います。趣味には本格的に取り組まないほうが賢明です、いわんや好きを仕事にするなんて。仕事をだんだん好きになる、ならむしろ好ましいけど。好きが好きであり続けるためには、ほどよいあそびが必要と思います。何か(自家用車や建設機械や小型船舶等)を操縦したことがある人にはわかっていただけるのではないかと思うのですが、運転する時にあそびはハンドルにはある程度は必要です。深く入り込めば入り込むほど、辛く苦しく切なくて、「どうして俺はこんなもの好きになった」と自己否定へとまっしぐらです。好きなもののせいで苦しむ。これでは自己否定したくもなります。
軽率(けいそつ)なお節介もいけない。よく考え抜かれたお節介ならいいけど。はじめは確かに親切心だったかも知れないけど、かならず相手があることです。いつのまにか意義が相手の手により変貌します。誰しもが「自分中心に考える」のです。その思いは、私の見知らぬ原野を駆け巡ります。原野であることがマズイと言いたいのではありません。見知らぬことがいけないと言いたいのです。何が起きるのか想像せよ。考えろ。でも、躊躇う(ためらう)ことはもっと良くない。何もしなかったのと同じ。ここにいる意味がない。存在する理由がない。生きてる理由がない。死ねと言ってるわけじゃないけど、生きてくことは苦しみだ、迷うことだ、悩むことだ。…難しいですね。
考える人の中に、私みたいにエキセントリックな考え方をする人もいることでしょう。「他人の思い」は私の思いに影響力があるのです。そして「私の思い」は他人に影響力が案外あるのです。私の言うことなんてたぶん聞いてないと思うけど、恐らく本当に右から左だけど、気づかぬうちにあの人の頭の中のどこかに残っているのです。
どうして私は「その気」にならなかったのでしょうか?なぜ私は「こんなものだという考え方は間違ってる。このバンドは何かが作用して働いている」とみんなに教えて上げなかったのでしょうか?心の動きは時に自分でも説明できないことがあると思います。矛盾だらけです。しかもタイミングを悉く(ことごとく)外してます。これが後悔です。しかも自己援護の気分に捕らわれます「俺は間違ってなかったはず」。だけど、こうして冷静に書き連ねてみると・・・・どうやら間違ってました。この齡になって初めて言えることですが、何か間違ってたような気がするのです。摩訶不思議な行動をしてました。
次回のブログは、3回目の時事問題「闇バイトは水に浮かんで流れる落ち葉の如し」です。それではご機嫌よう、さようなら。