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長過ぎね?俺の随筆(その54)『誕生日って何?』

長過ぎね?俺の随筆

こんにちは。いかがお過ごしですか?私はお陰様で相変わらず元気です。私の誕生日は8月16日です(本当)。しかし!今、100人中100人の人がおそらくこういうふうに思ったはずです。「あっそう?ふうん、たまたま今月なのね。でもそんなことどうでも良いわ」。…はい、どうでも良いです。今月に誕生日が訪れることにかこつけて、今回のブログのテーマは「誕生日って何?」です。あまりめでたくはないお話しです。

 

「すべからくあの人の誕生日にはプレゼントを送るべし(あの人って誰?それは俺、俺!何でもいいから俺にくれ!)」などとは申しません。不本意ながら申しません。でも常に、そういう気持ちだけ(気持ちだけ)は持ちたいと思います。誕生日と知っていてなお無視して、廊下ですれ違った時にでもせめて「お誕生日おめでとう」の一言さえもかけてあげないのは、人としてちょっと「いかがなものか」とは思わないでもないです(私は身体的理由でできません)。知らなかったらそれもやむを得ないのですが。

知らなかったなら、むしろその対応のしかた(無意識に無視してしまうこと)が当たり前です。「今日は誰それの誕生日だ」とも気が付かなくて、極めてお気軽な日々を過ごしている私がここにいます(ちょっとギクッ、お気軽な人生ね)。何と言っても、所詮声掛けなんてタダですからね。

だけど、誕生日だからといって「そうかそれはめでたい、金や銀で出来たネックレスでもプレゼントしよう」なんて絶賛するほど、興味を持てるはずもありません。誰かの誕生日なんて何かの旗日(記念日、国民の祝日)でもないし、何気ないありふれた日々のひとつに過ぎないから、その日が来ても何の感慨も湧かないだろうと思います。他人の誕生日なんて、まあ大概「記憶し続けていられない」ものではないかと思います。至極当たり前の感覚です。

 

誕生日の誕と言う文字は、「誕生」「生誕」「降誕」これら以外にはなかなか思い付かないと思います。私は漢字の専門家ではないので、詳細はわからないのですが、私がかつて聞いたところによると、「誕生日」ってあまり好ましい意味の文言ではありません。例えばそれは、メモリアルの日本語訳は「記念すべきほのぼのとした懐かしい思い出」ではなく、「今は亡き故人を沈痛な気分で一人静かに偲ぶ」と、あまり前向きじゃない意味だということに似てるのではないかと思いました。比較的誰でも書けるし、書けなくても読める字だけど。

「誕生日」とは「この世に生まれた日」という意味だから、「誕」という文字もそれほど悪い意味じゃないだろう、なんて、あなたも思ってるのではないでしょうか?私もそうでした。だけどこの際、ズバリと申し上げますと、「誕る」と書いたら、それは「いつわる」と読むのです(通常は偽る)。えっ?そんなふうにも読めるの?

「誕」は、どうして言葉を延ばすと書くのだろう?自宅や塾や学校などで「漢字の書き方」として「ごんべんに延す」と覚えたものだった、とは思いませんか。通常の書き方だという「人の為と書いて偽る」も、それはそれでなかなかな言い回しだけど。

 

実は「誕」とは、「告白できずに、告げるのを後回しにして人をあざむく」、転じて「他人にいつわる」という意味なのです。言葉を延ばしてあざむく。誕生日とは、「偽りの世の中に生まれた日」という意味なのです。生まれた日、というだけなら、ただ単に「生日(しょうび?せいじつ?)」だけで良かったのではないでしょうか?BIRTHDAYみたいに。

わざわざ接頭語に誕の一文字をつけて、「嘘偽りだぜ」と断る必要があるの?この世に生まれた日のことじゃないの?逆じゃない?偽りの世の中って何さ?

 

じゃあ、死んだ日は?これは「命日」です。死んだ日が命の日?命が来る日?逆じゃない?なぜ「命尽日」とでも言わないの?本物の命がやって来た日?本物の命って何?

 

ならば、生まれてから死ぬ日は?これを表現する言葉は「寿命」です。昔のブログでも触れましたが、「命をことほぐ、命があってもめでたい、なくてもめでたい」のです。命の長さという意味で使われることが多いようです。あってもめでたい?うんうん、そりゃああったらめでたいわ、「も」がちょっと引っ掛かるけど。反対に、なくてもめでたい?命が尽きることすなわち死んだことに向かって、おめでとうと言うの?逆じゃない?

 

今、聞かされた何もかもは逆さまじゃないか?とは思いませんか?大切なあなたが私が死んでしまったんでしょ?命が来たんじゃなくて、命が遥か彼方に行ってしまったんでしょう?そういう世界観なのかな?

命って何かというと、遥か彼方の星の向こう(西方浄土?)にある、「命という名の謎の塊」から分け与えられた「命のコピー」。私達が命だと信じてるものは、実は「私という意識」ってやつが作り出した「今見てるものが現実だ」という勘違い。何もないのに今見えてるという勘違い。

「今俺は生きてる」という思い込み。それは私の脳の産物。ついでにいえば、この世も私の脳の副産物。だからこの世は私が思い描いたのものに過ぎない、つまり「幻影」、つまり「偽りの世(誕りの世)」、つまり「ホログラム」。もしそうだと考えるとしたら「命のコピーが遥か彼方の本物の命に帰ることができる」から、おめでとうと言ってあげてる…。そう考えるほうが自然かな、と思います。

誰が考えたのかは知らないけど(お釈迦様発案?)、きっと、そういう世界観なのです。ホログラムで見えてる世界。偽りの世界に生まれてしまったから「誕生」?偽りの世界って、いったいどこ?文脈から察するに、ここなのか?本当の命に帰ることができるから命日?元々住んでた所(命の溜まり場・好事家さん達にアカシャレコードと呼ばれるらしい、雑誌『ムー』参照、かなり怪しくて妖しい)に、やっとのことで命が帰ることができるから「命日」とか「寿命」だと思います。ならば、偽りの世に生まれて来たから「誕生日」?

私は思います。世界観と言ってしまうと、さも「死後の世界は存在する」というような、普段からの私の持論に反する景色を導き出してしまうのですが、そうと承知の上でこのように申し上げます。なおご参考までに、私の持論とは「死後の世界はあるともないともわからない」です。「ない」側にかなり傾いてはいるけど、率直に申し上げて私には(たぶん誰しもが)わからないのです。「ない」側に考えたら重たい空気が霧散しますが、今のところ、あるともないとも私にはわかりません。

前置きが冗長になってしまいましたので改めてここで申し上げます。私の持論(あるかもしれないないかもしれない)とは整合性が取れませんが、逆さまな考え方もあるのではないのでしょうか?ひょっとしたら、本当に逆さまなのかもしれません。念のために申し上げます。かつてにも申し上げましたが、私は宗教的にはフラットですからご安心ください。だけど、時にはこのような宗教臭いことさえも思い描くほうが望ましい時があるのではないでしょうか?頭の練習、考える練習、老化予防、認知症防止、若返り(するはずないか)、お坊様(和尚さん)は長生きが多い、少なくともマイナス要因にだけはならないようです。この世は偽物の世の中。掴むことさえできないホログラムの世界。あるようでない。だけどこの現実は確かにある。みんながんばって生きてる。もしもこの案がお釈迦様の案ならば、その当時の言葉でこれを「色即是空、空即是色」、あるようでない、ないようである、と言うのです。これが般若心経の有名なセリフです。「ある」とは、実体がある、思いがある、喜怒哀楽がある、モノとモノとの繋がり(縁起)がある、そして何よりこの体がある、この5つがあることを「五蘊(ごうん)」と呼んだということです。「ない」とは、これらの5つがないこと。「何もない」ではなくて、「意味がない」というほうが近いかもしれません。小難しいな。そして何よりぶっ飛んでるな、まだ科学技術未発達のあんな昔に「ホログラム」か。

偽りの世の中に生まれて、やっと肉体が終わりになったから本当の命に出会った、おめでとう、良かったね。言われるほうは「?」「?」のオンパレードです。

 

ここで思います。「しかし、事故死してしまうことを『命を落とす』と言うよ?どこから落とすの?元々持ち歩いて運んでるの?どこに落ちて行くの?落ちたらなくなるの?そんな危なっかしいところを私達は歩いているの?ギリギリセーフは『命拾い』と言うよ?どこから拾うの?そこら辺にボトボト落ちてるの?逆じゃない?この世はホログラムなんかじゃなくて、しっかりあるんじゃない?」。うーん…、となります。

 

難しいことなんて良くわかりませんが、「悟りの境地」とは、こう言うことなのかもしれません。悟りというものの破片だけには触れられたかもしれません(あくまでも破片)。宗教はちょっと変なにおいがするから(宗教臭くて)いやだけど、本当のことは、案外こう言うところに潜んでるのかもしれません。

「誕生日」って深いな。「誕」って手強いな。それとも俺は考えすぎ?

 

次回のブログは久しぶりの時事問題の「核兵器と北方領土」の予定です。それではご機嫌よう、さようなら。