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長過ぎね?俺の随筆(その10)

2021年11月1日
長過ぎね?俺の随筆

こんにちは。お元気ですか?お元気ですよね。私は花粉症の季節でひどい目にあってます(私は世にも珍しい菊の花粉症)。早速ですが、また今回も長過ぎるブログを書き進めさせていただきます。今回のテーマは「中村八大、破れ去る」です。中村八大さん、その名前は聞いたことぐらいありますよね?有名な作曲家です。今回は思い出話からはじめましょう。

あの集まりは、たしか東京音楽祭という「歌のコンクール」だったかな、と思います。これと言った特色のない、歌謡曲というよりは、フォークソング(今で言えばJ-POPと演歌の中間ぐらい)のためのコンクールでした、今では東京音楽祭などとうの昔になくなりましたが。
今から50年ぐらい前の話しですが、上条恒彦さんという当時はまだ無名の歌歌いが「出発(たびだち)の歌」でグランプリに輝いた時のことです。この歌のことをご存知でしょうか?今では時々見られますが、漢字の読み方を「その意味は概ね通じるけど、本来の読み方とはちょっと違う」という読ませ方をして、人を惑わせ、そして驚かせるやつのはしりみたいなものです。出発(たびだち)の歌の作曲者は、その当時ごく一部の音楽マニアの間でのみ名前が知られてた小室等さんです。後のフォーライフレコードの初代社長です。
レコード(アナログゥ!なんて言わないで)から説明しないといけませんね。当時はまだCDというものがなくて、音楽媒体と言えば、ギザギザの溝を針でトレースするエジソン発明のアナログらしさたっぷりの「レコード」でした。レコード会社のレーベル(一言で言えば看板のこと)に乗っかって、レコードを作って売るのが歌手の仕事でした。
だけどある時、一部の跳ねっ返りが「自分たちだけのためのレーベルを立ち上げよう」と思いたち、お金を出しあって新しいレコード会社を設立しました。発起人は4人、井上陽水さんと吉田拓郎さんと泉谷しげるさんと小室等さんの4人です。だからフォーライフです。彼等は当時はフォークシンガーと呼ばれてました。お金を出したのは殆ど井上陽水さんと吉田拓郎さんですが、最初の社長はその4人の中で一番無名な小室等さんでした。小室等さんは日本におけるフォークソングの始祖者、あるいはフォークソングの神様と呼ばれた人です。私は古くから彼のファンでした。「六文銭」というバンドを率いてました。著しいヒット曲はないけど、一握りの人々の間ではけっこう人気がありました。
その六文銭(なぜ真田幸村の旗印?)をバックバンドに回して、自らはシンガーから身を引きソングライターと演奏者に徹して、ヴォーカルにスカウトして来たのは東京都中野界隈のシャンソン喫茶の専属歌手に過ぎなかった上条恒彦さんでした。その頃はまだシャンソ喫茶というものがあったんですよ。シャンソン喫茶で歌うシャンソン歌手の有名どころとしては、越路吹雪さん、ディック峰さん、美輪明宏さん、淡谷のり子さん、岸洋子さん、有名人にはこと欠きませんでした。そんなシャンソン歌手の駆け出しの一人の上條恒彦さんが小室等さんにスカウトされて、出発(たびだち)の歌で東京音楽祭に勝負をかけて来たのです。そしてその結果はめでたく(何がめでたい?)上條・小室連合の勝利に終わりました。驚愕(きょうがく)の大逆転でした。
後になって思えば、これは小室等さんの作戦の勝利だったなと思います。上條恒彦と言えば「ひげ面そのわりには短髪」のアンバランスが売り物でトレードマークでしたが、この時はまだひげなしに坊主頭でした。後に「木枯らし紋次郎の主題歌・誰かが風の中で」とか「沖縄海洋博のテーマ・珊瑚礁に何を見た」とかがヒットしましたね。その「勝負の相手」が数々の大ヒット曲で有名な中村八大さんです。巨大すぎるライバルです。「遠くに行きたい」「上を向いて歩こう」「明日があるさ」などの有名曲の作曲者です。小室等さんがまだ影の存在に過ぎなかった「フォークソング」の神様なら、すでに作曲家として名前が充分に知られてた中村八大さんは、実は作曲専門ではなく、日本における「ジャズピアノの神様」だったのです。 なのにフォークソングに転向を思いついたのでしょうか?
神様対神様のこの戦い(神様具合はかけ離れているけど)は、大方の予想を覆して小室等さんの勝利でした。「中村八大、かく戦えり、そしてかく破れたり」と騒がれたものです。そして出発の歌は大ヒットしました。上条恒彦さんも「あの中村八大を倒した男」として有名になりました。中村八大さんも今でいうシンガーソングライターを目指したんでしょうか。 どんなことが「勝つための作戦」なのかというと、実は中村八大さんには大きな欠点がありました。作曲家のくせに歌うことが無茶苦茶に下手だったのです。音程が悪すぎました。
ほとんどの場合、音痴の原因は「歌うことに不慣れ過ぎるから」です(稀に頭蓋骨の変型もありますが)。音を出すことに対しての不慣れが主な原因です。最初は下手くそだと思っても、繰り返すうちに、半数以上は歳を重ねる度にだんだん聞けるようになって行くものです。作曲家なら「音に不慣れ」なんてあり得ない、と頭を過る(よぎる)のですが、この人だけは例外でした。私はいまだにこんな音痴な人に出くわしたことはありません。
ちょっと話しが反れますが、音痴な日本人の歌歌いを例示しますと、郷ひろみさん、浅田美代子さん、大沢誉志幸さん、彼等はデビュー当時は耳を塞ぎたくなるほどの下手くそでした。今では、上手だとは言わないものの、聞くことができないほどの音痴ではありませんよね。上手くならなかった人の例を挙げると、宇崎竜童さん、田原俊彦さん、松任谷由実さんです。彼らは、デビューした時は聞けないほどの下手くそではありませんでしたが、今だに一向に上手くなりません。ま、いるにはいますね。
話しを元に戻します。中村八大さんは誰にも負けないほどの強烈な音痴でしたが、その時に歌った歌が「太陽と土と水と」でした。私も一回しか聞いたことがないから不正確かもしれないけど、概ねこのように歌ってました。「ひと様はお金があれば幸せを捕まえられると考えた、お金を蓄えた。ひと様はなんとかなんとかなんとか○○○○(忘れた)で、お金は消え失せた、(ここで突然曲調が明るくなって)太陽と土と水をこの手に持とう、太陽と土と水をこの手に持とう」。うーん、いい詩です。心に滲みます。
でも、この歌の歌い出し(Aメロの歌い出しの部分)は、なんと「和音の構成音階」だけで作られているのです。和音の音階だけ(時々例外的に階段状装飾音階あり)で作られてる最近の曲と言えば最近までヒットしてたAdoさんの「うっせえわ」です。サビの部分の「うっせえ、うっせえ、うっせえわ、あなたが思うより健康です」と、太陽と土と水との歌い出し「ひと様はお金があれば幸せを」のAメロの部分がそっくりなのです。うっせえわを初めて聞いた時私は中村八大さんを思い出し、中村八大さんを思い出した時に「彼は何故負けたのか」を思い出しました。名声に縁どられた中村八大さんの人生最大の敗北だったかもしれません。それにしても、今さら和音ねえ。50年の時を超えてこの作曲技法が復活しました。やっぱり曲調は似てます。盗作だと騒ぐほどのことでもないけど。
では、何が作戦かというと、おそらく小室さんはこう思ったのでしょう。相手は自分よりも10倍くらい強力(実際にそれくらいの差はあった)。でもこのコンクールには勝ちたい。ならばどうすれば良いか。そうだ。相手の弱点を突けばいい。卑怯者呼ばわりされても突きまくろう。そして自分の弱点を補えばいい。歌声が薄っぺらいと言われ勝ちな自分はシンガーを辞めて、音程は正確、かつ野太い声の男をスカウトすれば良いのではないか、と思い着いたのでしょう。
この決断には勇気が必要だったと思います。フォークソングの始祖者として長年自ら積み上げて来たものをまさか自分の手で打ち壊すことになろうとは、などと。そして今まで積み重ねて来た自分の作風さえ、大衆受けしやすいものに変えて来ました。キャンディーズなどに楽曲を提供した吉田拓郎さんに向かって「おまえはコマーシャリズムに身を売った」とラジオ番組で言い放つなど、あんなに嫌がってた「大衆受け」なのに。今にして思えば、私はもっと早くこのことに気付くべきでした。
私がまだ若い頃?は私はロックバンドに夢中で(20才~24才くらい)、私は作詞者兼編曲者(ヘンテコな組合わせだこと、でも話すと1ブログ書けるくらいに長くなるからまた今度)として片っ端からコンクールというコンクールに応募してました。何も考えないで力づくでした。かっこよく言えば、自分の才能を信じていました(才能に溺れてた、とも言うか)。でも、全く箸にも棒にもかかりませんでした。考えが足りませんでした、作戦が足りませんでした。コンクールに勝とうと思うのなら、肝心なものは作戦でした。作戦がはまれば、自分よりも圧倒的に強大な中村八大さんのような存在にも勝てたかもしれません。私が一番最後に挑戦したコンクールは、ヤマハのポピュラーソングコンテスト(通称ポプコン)でした。「これで駄目ならバンド活動を辞めよう」の決意でした。でもやっぱり箸にも棒にもかかりませんでした。その時優勝したのはシャネルズ(のちのラッツ&スター)、審査員特別賞がサザンオールスターズ、女流最優秀バンドが赤坂小町(のちのプリンセスプリンセス)。いやあ、勝てるわけがありませんね。揃いも揃ってビッグネームばかりです。でも「また馬鹿のひとつ覚えの力ずくかい?俺は絞り出すほど充分に考え抜いたのかい?ビッグネームを倒すには才能なんかじゃない、作戦だ。作戦を考え抜いての上でのことなら、ビックネームに破れても、こんなには後悔しなかっただろう」シャネルズもサザンも赤坂小町もその当時既にアマチュアとして有名でしたが、彼らより上手いバンドを私は掃いて捨てるほどたくさん見てきました。でも「バンドの浮沈は運、技術は持ってて当然」でした。恐らく作戦を考え抜いた上でこのコンクールに挑んでも、結果は負けだったでしょう。でも、同じ負けでも後悔具合が違うことでしょう。
全ては後の祭りです。
自分の青春を、いや、人生の全てを賭けた挑戦だったのに。わかったことはただひとつ、挑戦するには綿密な作戦が必要と。私は私と同じように儚い夢(はかないゆめ)を追いかけ過ぎて、人生その物を棒に振った男達そして女達の姿をいっぱい見てきました。才能はあったのに、才能があったばかりに、作戦が足りなかったばかりに。このことで私が得た教訓は、「プラン・ドゥー・ウォッチ」。その中でもとりわけプラン(作戦)は大事、ということだけなのです 。とかく人というものは、「何はともあれまずやってみよう」の精神、すなわち「Do」の精神は勇ましくて好ましい、などに走り勝ちです。でも、私は声を大にしてこう申し上げたいです。大切なものは綿密な作戦です。当たって砕けろ、では砕けるだけです。

今回もご多分に漏れず長文でした。もう謝りません。開き直りました。最後までお付き合いくださいまして、ありがとうございました。それではごきげんよう、さようなら。