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長過ぎね?俺の随筆(その1)

2021年2月20日
長過ぎね?俺の随筆

お待たせしました!本日より入居者Y.I.さんの連載「長過ぎね?俺の随筆」を毎月一回配信します。どうぞお楽しみください!

 

初めまして。私はこの施設の入居者「Y.I.」です。この随筆は、一体このホームページのどこにどのように掲載されてるんでしょうか?おそらく短文が添えられた写真集の片隅に鎮座ましますのでしょう。そんなとこに置かれると、こういった「文字だけで構成された随筆」は、少々違和感を感じますね。ま、騒いでもしょうがない、どうぞお気楽にお付きあいください(長文ですが)。本来なら、苟も(いやしくも)自己紹介とあれば、本名・現住所・出身地・最終学歴・趣味・特技・保有資格・などなど、履歴書に明示する一切を詳らか(つまびらか)にしたい、いや、しなくてはならないと考える年齢及び世代なのですが、この頃のようなカード社会の昨今は「個人情報はなるべく明らかにしない」という風習があるように思われますから、最小限の情報開示に抑制させていただきます。追い追い披露しますね。私は昭和34年生まれの61才独身です。バツイチです。息子が3人います。長男と次男は私に親権がありました(つまり私と同じ姓)。元奥さんは、お相手に恵まれたこともあってさっさと再婚しました(つまり元奥さんと三男は別姓)。私は、身長175㎝体重63キロです。かつての体重は88キロありましたが、脳卒中で倒れた後に、医療事故に遭遇してのべ3ヶ月昏睡して、目覚めたら53キロでした。現在、体重ベクトル「↑」上向き中で、なぜか体重増加中です。

この文章は私の随筆です。これを書きすすめる目的は「こういうものを読んだ介護の仕事に関わる人たちを、少しでも勇気づけることができたらいいな」とある人から言われてのことです。他人に向かって何かの書き物を書く、というのは私にとって初めての出来事なのですが、できるだけわかりやすい文章が書けたらいいなあ、と思っています。初回のテーマは、「身障者には、介護スタッフさんがどのように見えているのか」です。これについて私見をとりとめもなく綴ってみようと思います。長文になりますが(ごめんなさいね、悪いくせなんです)どうぞおつきあいください。

 

施設の入居者にとっては、介護士の言葉こそが世の中の全てだと私は思います。

入居者にとっては、血を別けた存在である「家族」からのお見舞いは、ひとしお嬉しいものだけど、なぜか家族からは世間の動向の実態や本当の季節感がイマイチ感じ取れません。家族も介護士と同じように世間を歩き回ってるはずなのに、と思います。その理由を私はこのように考えています「自分が身障者であるばっかりに、私が間違っても『俺だけが出掛けられなくて悔しい』などと思わないようにと、家族たち自身も知らず知らずのうちに気を使って、世間や季節感を出すまいとしてる」ためだろうと思います。そうです、「出せてない」ではなく、「出してない」のです。

我々身障者は、ただのうのうと空調が効いた建物の中で年がら年中過ごしているから、季節感と言うものを失ってしまっています。例えば衣替えのタイミングなんて、「ちょっと寒いかな?」あるいは「ちょっと暖かいかな?」と思っても、その第1報をもたらしてくれたのは、カレンダーの情報、またはテレビで見かけた情報から得られたものであって、自分の肌で感じとった感覚じゃありません。だから、本当に今なのかな、と疑心暗鬼の塊みたいになってしまってます。「みんなが衣替えしたから、俺もそろそろかな?」ぐらいのノリで決めてます。衣替えするにしても、自力でたんすの中を引っ掻き回せる人ならまだいいけど、介護スタッフ頼りの人は悩みます。介護スタッフもあれやこれやで忙しいから、「すぐには衣替えできないよ、したくてもできないと言うべきかな」といわれて「はい、おしまい」です。それが関の山という深読みのし過ぎのために、時期が早過ぎてしまうこともあるし、ともすると往々にして遅れがちになるものです。その誤差はただひたすら我慢我慢です。けれども本当にすぐに来てもらわないと困るのは、この衣替え直後です。洗濯から帰ってくるやつが1~3枚どうしてもまぎれ込んでしまいます。半袖と長袖が混じってしまって、何のために衣替えをしたのかわからなくなります。かくも季節感というものは、我々身障者にとっては大切なのに、その大切さがなぜか我々は「身に滲みて」いません。世間の様子についても同じです。我々身障者は、もしかして「俺は身障者だから、世間知らずでもいいや」なんて心のどこかで思ってるのかもしれません。

この随筆を読んでいてくれるのは、私と同じような身障者ばかりではなく、どこかの施設の介護職の人も多いのかも知れないと私は思います。そんな介護職の人に申し上げたいと思います。我々身障者が、世間の実情や本当の季節感を感じ取れる唯一の機会は「介護スタッフの何気ない独り言」に他ならないと私は睨んでます。独り言だけではなく「会話する相手がそこにいる時の一言」にも含まれます。介護スタッフが「ぼそっ」と呟いた独り言や一言が、後になってからなぜか我々には鮮やかに思い出されるのです。「ああ、あの時あの人があんなことを言ってたっけ」なんて。それに、普段から多弁であってもいいけど、無理矢理多弁である必要はありません。多弁は時にやかましいけど、その情報量の多さにはいつも感謝してます。でも「基本的には無口」だという人の呟きのほうが心に残りやすいみたいです。「ぶつぶつ言わずにさっさとやれ」などと怒りだす入居者もいるでしょうが、そんな人の言葉は気にすることありません(病んでるのだから気にしない、適当に受け流す)。ほとんどの人は聞くとはなしにしっかり聞いてるものです。そして後から心に響くのです。そう言うことが案外多いと経験上から身障者は知ってます。もしも「この介護士さんの話しを聞いてもいい」と思ってくれる人が一人でもいる、ということは「あなたの意見は貴重だ」ということなのです。感受性こそがその人の人生観です。つまり、言い換えるとあなたは「人一人の人生観をも左右している存在」なのかもしれません。介護してくれる人の中には時々「必要以上に自信なさそうにしてる人」、あるいは、「自分は何のために仕事してるのか見失ってしまってる人」をチラホラお見受けしますが(今は夢の家にはいませんけど)、私が思うにもう少し自信を持ってもいいのではないかと思います。ただし間違ってないほうに持つ自信、です。我々身障者に言われっぱなしでやめて行った介護士を私も何人も見てきました。働こうとする心を見失ってしまった、あるいは自分がしてることに自信が持てなくなってしまったのでしょうか?その都度私は思います。「惜しい人を亡くしたもんだ」(死んだ訳ではないですよ)。もしも「介護技術」というものが存在するとしたら、それは、介護に対する揺るぎなき自信が潜在する人にだけ獲得できるものだと私は思います。自信を持てば介護技術が上がる、介護技術が上がれば自信がますます持てる。これは理想的な循環かもしれません。

ただしこの時の呟きの主語は介護スタッフ本人でなくてはなりません。 主語が身障者自身だと、物語が自分に向けられてしまう経験を思い出してしまいます。身障者も、自分に対する文句は多いだろうなと、薄々感じてるから、どうしても聞きたくないと思ってしまうのです。 誰も「文句ばかり」を言われたくはありません。 耳にたこができてるわけじゃありませんよ🐙(おっ、たこ違いか)。そんなのは単なる言い訳です。

私が若い頃は介護職なんてありませんでした。お世話するのは看護婦さんの仕事の一環でした。でも、看護婦を看護士と呼び代えるようになった頃から風向きが変わったように思います。もし、私の時代にも「介護士」という仕事があったとしても、例えば私には勤まりそうにもありませんでした。介護士を目指すためには「人の役に立ちたい」という、心の内に秘めた情熱が必要だと思います。多かれ少なかれ、そんな気持ちがあるからこそ、介護職になれるのです。私にはそれが欠けてた、あるいは足りなかったと思います。大勢の身障者もそうだと思います。普段からもっと自信を持って我々に接してください。自信に溢れた人は、輝いて見えるものです。

 

以上、予告したとおり長文でしたね。最後までおつきあいくださいましてどうもありがとうございました。また来月お目にかかりましょう。来月のテーマは「人はなぜ仕事するの?」の予定です。それではさようなら。ごきげんよう。