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長過ぎね?俺の随筆(その33)『死ぬ直前の行動』

長過ぎね?俺の随筆

こんにちは。お元気ですか。私は歳相応(としそうおう)には元気です。うーん、歳相応かぁ。何かにつけ若い人には敵わない(かなわない)からなぁ。若い人は見るからに元気そうだもんなぁ、羨ましいな。もう若かりし頃には戻れない。私にはもう青春の日々は帰らない・・・。そこで今回は、歳取ってからしか考えそうにないことがテーマです。恐いもの知らずのブロガー(俺の事)しか書かないようなテーマです。先に謝っておいたほうがいいかな、ブログの管理人さん、いつも暴れてどうもすみません。今回のテーマは「私が死ぬ直前の行動」です。死ぬ前兆が予測できたらいいかも知れない、と思ったためです。いつの日か自分も通らなくてはならない径(みち)だからです。でも、予告されるのがいいことなのかがよくわかりません(予告なんかされたら恐いだけ)。通らなくてはならないと言ってもなぁ。思いきりへこむだけじゃないかと思うばかりですが、いつも「歳甲斐がない」と非難され揶揄され冷笑されてますので、ここはひとつ「歳相応」路線で行こうと思います。いつも時間を持て余しかつ比較的高齢の私が(比較的だって?聞いた?比較的だってさ、わははは😁)、いつも考えそうなことです。

ここで「実は本当は物語」をご覧に入れましょょう。実は本当は 「生きるって何?」というテーマでブログを書こうとして書き始めたのですが、なぜだかどうしても筆が進みませんでした。ぎりぎりまで粘ってました。先月のブログの終わりで「次回のテーマはまだ決めてません」と申し上げたのもこのためです。書いては消し、また書いては消し、の繰り返し、もう3年以上。とってもヘビーなテーマだからなかなかうまくいかないのさ、と自分で自分に言い訳し続けてきたけど、とうとう流石(さすが)に厭になりました。「余生を生きる」などと言って開き直りの姿勢を普段から匂わせてるこの私でさえも、心の奥底では「もっと違うこと」を考えてるのかもしれません。違うこととは、本当は「生きたい。長生きしたい。死にたくはない。そりゃあこのトシだからちっとは覚悟はしたけどさ。でもそう言う話しじゃないでしょう?」と思ってるのかもしれません。

そこで今回は、逆転の発想で、死んでしまう前兆を考えてみることにしました。死んだことは1回もありませんが(あるもんか!)、目撃だけは人一倍経験して来ました。 死を扱うことはもうこれで3度目です。ブログ第17回では「死ぬって何?寿命って何」でした、第21回では「冠婚葬祭」でした。3度目にして、今までで一番エグいやつかもしれません(3度目の正直?)。聞きにくいと思いますが、できるだけ読みやすく書こうとしますので、もし良ければ最後までお読みください。

 

私にとっては今もなお辛い思い出ですが、かつて高校生の頃、私は二人の友人を亡くしました。一人は1年生の時、齢(よわい)16です。彼の死因は肺がんでした。若いが故(ゆえ)進行が早く、入院してからあっという間に死んでしまいました。お別れを言う間もありませんでした。でももしもお別れを言う間があったとしても、「これでお別れ」なんてとても言い出せなかったでしょう(今でも)。泣き出してしまったかもしれません(今でも)。我々見舞い客にも病状は教えてもらえませんでした(そういうものだったんだな)。本人ももちろん知りません(徹底的に宣告しない)。「また来るな」「ああすまん、待ってるな」が最後のやり取りになりました。後から思えば、少し病室から離れた廊下の片隅で煙草を吸ってたお父さんのうなだれた肩が忘れられません。吸引用酸素への引火を防ぐためのキープディスタンスだと思うのですが、その時のお父さんの心境に思いを馳せると、いたたまれないものがあります。私にもショックがむちゃくちゃ大きかったです。「待ってる」と言ったのに待っててくれませんでした。彼は小学校からの友人で中学校も一緒、そして高校も一緒、私と同じ一人っ子でした。遠距離通学の地下鉄の車内で、盛んに語り合ったものでしたが、ある日突然私の視界から消えました。私の死生感におおいに影響を与えました(その好例が死生感という言い方、普通は生死感、見事に真逆)。

二人目は3年生の時、齢(よわい)18、高校卒業式の3週間前のことです。仲良くしていた同じクラスの4人組のうちの一人が突然ガス自殺しました(そりゃ突然と思うよ)。その当時私が住んでた名古屋市内の都市ガスは、今は「くさいばかり(付臭剤メチルメルカプタンのせい)で死のうとしても死ねない、天然ガス由来」の採掘ガス、メタンが主成分の13Aですが、その当時は「自殺可能な、コークス由来の製造ガス」6Cでした。6Cは水素が主成分ですが一酸化炭素も致死量含んでます。その上、付臭剤が必要ないほど臭いです(ちなみに一酸化炭素の名誉!のために、一酸化炭素は無味無臭)。

残された3人は3人とも、滑り止めも含めて、現役では大学受験に全校不合格でした。平静を装おっていても、心の中は動揺していたのでしょう。「死ぬほど悩んでたなんて誰も知らなかった。俺たちはあいつにとっての友達なんかじゃなかった」これもむちゃくちゃショックでした。打ちのめされました。

 

社会人になってからも、やれ、親戚の伯父さんが危ない、やれ、会社関係のよくお世話になってる誰それさんのお義母さんが危篤、とか言って、人の死に際を嫌と言うほど見て来ました。

 

翻って(ひるがえって)、私は若い頃から「自分の死に際」のあり様を考え続けて来ました。事故死は考えられなくもないけど、確率的には稀(まれ)でしょう。そして、もとより自殺なんてする気はありませんでした(今でも)。普通は病気で死ぬものです。今となっては「あの時は何であんなこと考えたのだろう?」と思うばかりですが、「私は、死ぬ時はせめて畳の上で死にたいものだ。ベッドの上でチューブまみれでは死にたくはない」と思い続けて来ました。畳の上で死んで行くことの何がメリットなのでしょうか?いくらベッドの上と言っても、チューブまみれは大袈裟過ぎるのではないのでしょうか?ベッドに失礼です。

そこで、私なりに「私が死んで行く1週間前の様子」と「私が死ぬ直前に起きること」を、経験から導き出したいと思います。

 

人の死に方には4パターンあると思います。

 

1・急激に生命力喪失、これはガン患者などによくみられるそうです。1ヶ月前まで元気だったのに、心の準備もできないうちにお別れになっちゃった、という状況です(私の父親がそうだった)。苦しそうな顏のわりには、痛みを伴わないことも少なくないらしいです。未経験だからよくわかりません。ただしすい臓ガンを除く、すい臓ガンはのたうち回るほど痛むらしいです。これも未経験だからよくわかりません。痛くないと言われるから「ガン死」希望者が後を絶たないのです。

 

2・V字谷を繰り返しながらの悪化、心臓病に多いそうです。死にそうになっては持ち直し、また死にそうになっては持ち直し、フと気付くともうどうしようもないレベルダウン。これが私達がイメージする「病死」です。

 

3・生命力の低止まり(ひくどまり)、そのまま底までまっしぐら、だそうです。老衰の時に多く見られるそうです。

 

4・突然死。事故死、自殺、などです。確率はあまり高くありません

 

次に「挙動と兆候」を考えてみました。

 

映画やテレビドラマのワンシーンみたいに「今までありがとう、ガクッ」とか「真犯人はあいつだ、ガクッ」とか「ああ撃たれた、俺は死ぬのかゲホッ(吐血)、遺産は全て兄さんに、ガクッ」などというのは全部嘘っぱちです。人はだんだん老いぼれていって、最後には口も利けなくなって、意思の疎通さえできなくなって、老いさらばえて死んでいくものなのです。老いさらばえて行く最期の姿を誰かに(家族や看護士に)ただ見詰められながら死んでいくものなのです。普通はそういうものです。たった一人で誰にも見守られず死んでいくなら、それはそれでまぁいいのですが(良いところも悪いところもある)、今ここで考えたいことはそんなことではありません。純粋に老いさらばえていく過程が知りたいのです。それがわかれば、それを感じ取った私自身も覚悟ができるし、残される家族も助かることでしょう。

自分的には、先程も申し上げましたようにへこむばかりですが、ある程度の覚悟もできるので、とてつもなく恐いけど、一律に「それは悪だ」と決めつけるわけには行きません。

 

手足と顏が徐々に痩せ始めます。おなか周りはそのままなのに、手足と顏だけだんだん痩せて来ます。体重も変わらなくて体調も今まで通りですから、眼鏡がズリ落ちやすくなる程度なので、自分には気が付きにくいです。体調を尋ねられても「元気だよ。相変わらずだよ」というばかりです。本当に相変わらずなので、そう答えられても仕方ありません。でも、眼鏡はずり落ちて、腕には筋が浮き上がり、ズボンは見るからにダブダブです。もしも太ったらズボンは買い換えるでしょうが、痩せた時には「大は小を兼ねる」ではありませんが、大抵の場合そのままです。これを見かけたら「良くない兆候」と思ったほうがいいです。そう言えば、俺のトレードマークは「眼鏡のずり落ち」大丈夫か、俺。

 

ガン。言わずと知れた「死因のナンバーワン」です。前述の「人が死んで行くパターン」でも御紹介した通り、悪化する直前まで比較的元気で、しかも思ったほど痛くない、という特徴を踏まえて「ガンで死にたい」人が続出してるらしいのです。けれど状況はそんなに甘くはありません。早期発見なら高い治癒率です。しばしばテレビなどで見かけます。が、もし早期発見じゃなかったら、とは思いませんか?例え切除して取り除いても、ガンは大抵の場合、上へ上へと転移します。転移が発見される時は大抵ステージ3かステージ4だそうです。しかも転移は極めて高い確率で発生します。

 

中治り。長らく病床に臥せっていても、なぜか一旦元気そうになる場合があります。これを中治りと言うそうです。美空ひばりさんを思い出してください。死んでしまう直前に、元気そうに武道館(東京ドームだったかな?)でコンサート。川島なおみさんを思い出してください。どこからどう見てもガリガリに痩せ細ってるのに死の直前に記者会見。なぜか死ぬ直前に元気になるのです。これらを「中治り」と呼ぶのは聞いたことありました。にんべん付きの「仲直り」と掛けてるのでしょう。

 

せん盲を引き起こす、日付→時刻→場所→人の名前、の順に、認知症でもないのにだんだん間違えるそうです。日付を間違え始めたら、それは「死期が近い」のサインかもしれません(ギクッ、俺最近連発して日付けを間違う、でもあながち脅しでもない)。遠い親戚の成人してる子供に「ああ、お父ちゃん、迎えに来てくれたのか」初めて会ったのに、このように言い出します。死期が近づけば近づくほど激しくなります。見ている人に死をなんとなく直感させます。

 

いくら言っても目を閉じる。叩いても揺さぶって呼び掛けても瞼を開けない。そうしてるほうが楽だからです。

 

窓を開けたがる。外に何かいるように感じるのでしょうか?私にはわかりませんが、たぶんいるのだと思います。

 

漸進悪化。去年より今年が悪い、先月より今月が悪い、先週より今週が悪い 、そして、昨日より今日が悪い、午前より午後からが悪い、一時間前より今が悪い、と進んで行きます。時間を追う度にだんだん悪くなります。若いほど速いですので、気を付けましょう。

 

黒い影が近づいて来る。他人には見えない黒い影が見えることがあります。縁起でもないけど、本当です。怯えまくってる人を見たことあります。

 

死臭。その人から鉄パイプが錆びたようなにおいがします。これはどこからにおって来たのと思います。

よく「死に際の人にはカラスが集まる」と言われますが、このあたりに理由があるのかもしれません。カラスにはわかるのか?

 

人となりが一変する。性格チェンジならば、怒りっぽくあるいは優しくなる。

普段は言わない感謝の言葉を聞きます。突然に感謝します。今までありがとう、もし生まれ変わっても夫婦になろう(俺は永遠にバツイチだから言いたくても言えないな)。

また、普段は言わない怒りの言葉を聞きます。「あいつ、腹立つなぁ」「お隣さんがやかましい」ならまだいいのですが、エスカレートして来ると、部屋代が高いから何とかしてくれ。孫の手がないから背中が痒くて10分後に死ぬ。カラスを飼いたいから今すぐ鳥かごがほしい。(あんなにでかくて恐い鳥飼えるか!認知混じりかな?)

ベッドに臥せたままでも、不慮の事故で突然死する直前でも言い始めます。

 

身辺整理現象。生前整理のリアル版と言うような徹底的な片付けをするそうです。これも事故死直前にも見られるみたいです。

 

走馬灯現象。ちょっと前にも起きるし、直前にも起きる。夢を見たと語り始める。本当か嘘かわからなくて、聞かされるほうはたまったものではありません。でも妙にリアル。

その頃すでに見当識障害を起こし始めてるから、聞かされたほうは、死期が近いと思わざるを得ません。

 

手相変化。運命線や生命線に×印、もしくは、行く手を遮るような縦線もしくは途切れる、だそうです。残念ながら(幸いにも、かな?)私は見たことがありません。あくまでも噂です。

 

手鏡現象。手の甲や手のひらをなぜかひたすら見つめる。声を掛けるまでやめません。見つめていたことも覚えていない。もちろんその理由も。そう言われて見ると、お見舞いに行った時、あの人はベッドの上で自分の手のひらばかり見てたなぁ、と訃報に触れるたび思い出します。

 

行動範囲が狭くなる。外に出てた人が、家に引きこもります。そして部屋から出なくなります。さらにベッドから離れられなくなります。ベッドに寝たきりになります。

 

透け感のある白い顏。色白でもない、病気のための顔面蒼白でもない、ただひたすらに透明な顏色です。例えは上手くないかも知れないけど、私は西洋アンティークのガレのランプシェードを思い出しました。オカルトチックだが、交通事故死の前日にも見られるそうです。予告しないことになってる死刑囚の死刑執行の前日にも起きる、だそうです。

 

長時間睡眠。とにかくよく眠る。だんだん昼間も眠る。食事準備のわずかな間に眠る。食事介助中の僅かな間にもいびきをかいて眠る。これも死期を予感させます。

 

食べなくなる。体重減少が顕著。痩せたのがわかる。最後にはガリガリに痩せ細ります。

 

顏に影が見える。目はくぼみ、頬はこけ、肌は荒れ、しわは増える。とうとう最後にはできるはずのない鼻の頭や頬の膨らみのところに影が見えます。痩せたこともあいまって、これもまた死期が近いことを予感させます。

 

体の置き場がない。右へ左へと体を揺らす。ものが言えるなら「布団が重い」と訴えます。

 

苦しそうな眉間の縱皺。

呼吸は、はあはあと肩で息をするようになります。見ている人は眉間の皴もあいまって「つらそうだ」と思うけど、資料によると、そうでもないらしいです。そのうち顎で息をするけど、胸元は全然動かない。

 

声がかすれる。自分の耳を横たわってる人の口の近くまで持って行かないと聞こえない。

 

見当識障害、お迎えがやって来たと口走る、

意識低下、これらが最後まで保てません。

 

意識混濁

バイタルが不安定。

 

話し掛けても返事ができない。だけど聴覚だけは残ってる。

 

眉間にシワ。だけど苦しくない

 

食事困難、というか不可能。

意識混濁。

まぶたを閉じる。指で無理矢理開いても、黒目不安定、目が回ってるんだろうと思います。

 

このようにして、文字通り「老いさらばえて」死んでいくのです。

前兆はこのようにいくつもあります。それに気づけるだけの注意力があるかないかの差だけです。

 

「自分の死にざまを想像する」。それは楽しいことではありません。だけど、このトシになるとどうしても考えてしまうのです。これはそうやって考えた結果でした。介護士のみなさんは、仕事柄「死亡率が高い人」に接する機会が多いのではないかと思います。高齢者ばかりとは限りません。何かあった時に生き抜く力が比較的小さい人もいるのではないかと思います。そんな彼等に接する時にこの前兆を知ってさえいれば、あるいは対応のしかた(救急搬送の搬送先の選択など)が変わるかもしれません。

 

冒頭で私は「歳相応に元気です」と挨拶しました。しかしそのココロは、「元気じゃないということの本当の意味」がどういうことなのかが悔しいかなだんだんわかり始めて来てしまった、です。元気じゃないわけでもないから、反論的に元気です。でもそれはまさに「歳のせい」です。冒頭の挨拶で続けて私はこのように言いました「若い人がうらやましいな、若い人にはかなわないな」。元気じゃないことがどういうことなのかが、歳のせいでわかってしまう自分のことが不本意なのです。返す返すも残念なのです。「人生はただ一度」若い頃から散々聞かされ続けて来ました。だけど今、それが身に染むのです。今更ながら実感できるのです。

 

大流行してたYOASOBIの「アイドル」という曲もさすがにもう流行も終わりですね。今日久しぶりに再生してみました。懐かしさはまだ感じません。まるで新曲みたいな刺激がありました。あの曲は演奏時間3分46秒の(かなり短め)間のメロディーにも歌詞にもMVにも仕掛たっぷりで私は好きです。あのような罠は大嫌い、という人もたくさんいらっしゃるので、あるいは「独りだけの大好き」なのかもしれません。

まず、あの曲はアニメ【推しの子】のテーマソングなのですが、推しの子?推しはそのとおりの意味ですが、子は……言われてみれば確かに子。可愛い子という意味ではありません。ネタバレになるから内緒です。私は、ああいう「二重の意味」が大好きなのです。推しのテへんがひび割れてます、不思議な【】もついてます。睨んだとおり全て意味がありました。

メロディーは、ラップセクションから始まるのですが、そんな始まりの音楽なんて聞いたことありません、サビメロから始まるというのなら昔からありましたが(例えば松田聖子の青い珊瑚礁)。短調か長調かを決める3度の和音を故意に出さない、しかもラップだから旋律もない、なのにあの闇感、幸せじゃ終わらない予感たっぷりです。イントロはいっさいなくて、ラップが終わってAメロに移る時も2小節だけ、令和の音楽だなぁ。これではオタクが気勢の上げようがありません(エンディングでやっと出たけど無惨にもそれも打ち切り)。しかしその短い間に強気の歌詞のせいもあって雰囲気は出てます。転調をしばしば気がつかないうちにやって、あからさまなのは一ヶ所だけ。始まってからいきなり1音下げて2度上げる、しばらくしてからまた1音上げる、また3音下げて1音上げる、ジェットコースターか?例えばサビメロも転調して巧みに隠してます。転調の目印も一切ありません。カラオケ、まず無理。3回目(最後)のラップセクションでテンポがわずかにテンポが落ちてます。復帰する時も完全には戻り切らないでまた転調。目が回る。ラップミュージックで多用される3連符への移行もやってて手慣れ感を出してます。

あれクリシェと言ったっけ?ベース音が半音階ずつ低くなるコード展開、その上通常より二つ多い。ピカルディ終止だっけ?マイナーコードで進行して最後だけメジャーコードで終わるやつ。突然出て来てすぐ消える男声コーラス。闇落ちのエンディング。4度と7度の和音をAメロBメロでは絶対使わないのに(使わない曲は案外多いけど)サビメロだけ平気で使う。サビメロだけといえば、サビメロまでは3・3・7拍子で流れて来て、サビメロだけ前掛かりに聞こえるシンコペーションで突然崩す。欧米人が忌み嫌う「増3度の和音」(悪魔の和音とよばれ、グレゴリオ聖歌の次に使ったのはベートーベン、800年位封印、さすがに今は平気で使う)。全てが物語りに添ってます(不気味ですね)。シンコペーション多用はももクロ風(ソングライターのヒャダイン風かな?行くぜ怪盗少女だったっけ?)、歌い出しのしゃくりのあやや風(いやいや聖子ちゃん風かな?青い風ぇーっ、切ぃーって走れぇーっ、あの島へーっ、わかる人にはわかる)、アラビックスケールのペンタトニック(モー娘特有)、オタク集団の合いの手のオイオイ(初期のAKB風)がアイドル感をちょっとずつだけ醸し出してます(ちょっとずつ、なんせあっと言う間だから)。歌うのが本当に難しいのは「欲張りなアイドル」と音程が跳ね上がるとこじゃなくて、「誰をかれをも虜にして行く」と、音程が下がるとこを確実に出すことだと思います。歌い終わった歌の音程をPCで修正することもできるみたいだけど、あの曲はたぶんやってないと思います。声のエフェクトを無視したら生歌可能なのかな?コンサートで歌えるな。聞く度に「凄い音感だなぁ」と感心します。いずれにしても、普通の人は歌うの無理。

歌詞、「アクアとルビー」⁉出た主人公。マリアって誰?「引き立て役B」どうしてB?。「これはネタじゃないからこそ許せない」何なら許せる?誰が誰を許せないの?「一番星の生まれ替わり」「一番星を宿してる」何か深い意味でもあるの?(あった)。「君と君にだけは言えずにいたけど」誰と誰?何がとは聞かないけど、なぜ言えなかった?「やっと言えた」やっと?(まさかあの展開?結末は知らんけど)。あのぬいぐるみは犬?兎?なぜ首をボトッと落としたの?

アイドルなのになぜだかいきなり恐い顔(ニッコリ微笑んでるけどなぜだか恐い)。あの人はB小町というアイドルグループのセンターの星野アイです。瞳の星マークのせいであんなに恐い顔の印象なのです。星野アイって、言い替えたら「星の目?」そう言えば星野アイだけいつも両目とも星。アクアもルビーも片方だけ星。色違いの人もいる、アクたん(アクたん?)も一瞬黒くなる。星がない人もいる。星のその意味は?

終わりがけで出てくるテレビが明らかに旧式なのはなぜ?MVの最後でアクアとルビーに飛びついたアイが一瞬「ニャッ」とするのはなぜ?

 

あの曲テーマは「(アイドルであることの)嘘」だけど、本当のテーマは「◯くしゅう」なのです。◯くしゅうするためにアクアとルビーの双子は◯んせいしたのです。

 

死後になってしまったら、◯くしゅうなんてできません。思いだけ残って幽霊になるだけです(うらめしや~。俺なら幽霊なんかなりたくないな。うらめしやで思い出したけど、うらめし屋ってたしか四日市市の海軍道路沿いにあった定食屋、隣がにくらし屋焼き肉店、ネーミングのせいかさすがにもうなくなった)。前世の記憶が残ったままの◯んせいなんかも絶対に不可能です。私たちは、こういうアニメを目にした時、その世界観にどっぷり浸かりながらも、これがドラマじゃなくアニメである理由を考えなければならないのでしょうか?裏を読まなければならないのではないでしょうか?「実際には◯くしゅうもできない、◯んせいもできない。じゃあ、生きてるうちにできることは何だ」と考えるべきなのではないでしょうか。この物語りは見掛け上「アイドルであり続ける嘘」かテーマです。虚構の世界の話しです。だったら、今見てる◯くしゅうの世界観も虚構なのではないでしょうか?本当に訴えたいのは、「人の生きざま」じゃなくて「人の死にざま」なのではないでしょうか?

欧米に「アイドル」という概念はありません。アイドルのことを「嘘の世界」と決めつけるのも行き過ぎと思います。可愛い娘さんのダンスを見てただ純粋に「可愛いな」。かっこいいお兄ちゃんが目の前で踊り歌うのを見て「素敵」。いけないことじゃありません。正直言って「私もああいうふうになりたい、目は2つで口は1つ、胃袋も1つで足は2本しかも直立できる(できた)、彼らと大差ないはず。モテるんじゃない?まかり間違ったらなれたかもしれない」と思ったこともないでもないです(鏡を見ろ)。かっこいい世界と嘘の世界、生きて行く過程と死に行く過程。

裏を読みながらエンターテイメントを楽しむ。何だか違うような気がしないでもありませんが(はっきり言って、するけど)、このアニメは単なる「◯んせいの世界観、◯くしゅうの世界観」を見せようとしてるのではないと思います。それだけなら船越英二のサスペンスドラマの崖っぷちがあるじゃありませんか?アニメである必要がないと思います。ああいう嘘物語りを見させ続けようとする「作者の意図」を私たちはもっと汲み取ってやる(やる?「あげる」だよ)べきだとは思いませんか?「死んだらどうなるのかな?」

そしてその上で「自分が死ぬ前の行動」を知ってるべきなのではないでしょうか?。自分が何をどう考えてどのように振る舞うのか(振る舞ってしまうのか)?応用もできそう、したくないけどお見舞いに行った時使える。知ってて無駄ではないと思います。

 

よろこばしい話しじゃないので、今回のブログもこのあたりでお開きにします。読みにくかったでしょうか、急いで書いたわりには長かったです。最後までお付き合いくださいましてどうもありがとうございました。

次回のテーマは「東日本と西日本」の予定です。ちょっとだけ笑えるかもしれません。それではご機嫌よう、さようなら。