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長過ぎね?俺の随筆(その9)

2021年10月5日
長過ぎね?俺の随筆

こんにちは。お元気でお過ごしでしょうか?最近ちょっとだけ涼しくて、真夏のことを思うとまだ過ごしやすくなりましたね。過ごしやすいのが一番です。今年はまだましなほうですが、ここ10年位は異常気象のおかげで「暑いんじゃないか、と思ったら、いきなり寒い」まるで秋がなくなったみたいですよね、体に悪いですね。

前回ご紹介しました「点心の語源は一点素心」というのが、思い掛けず好評だったので、今回も私の雑学の中から、語源についてご紹介いたします。題して「語源。知ってる?」です。

 

私は残念ながら、魚釣りにはほぼ興味がありません。ないけど、魚の名前は人並ぐらいには知ってるつもりです。ボラという魚は実は出世魚です。体の寸法が大きくなる度に名前が「おぼこ→○○(忘れた)→いな→ぼら→とど」と変わります。一度だけテレビでとどを見たことがありますが、体長1メートル以上の銀色の立派な魚影でした。「とどのつまり」という言葉を聞いたことはありませんか?じたばたした挙げ句、思わしくない結果が出た時に使うことが多いみたいです。語源をお教えしましょう。とどとは「水族館にでもいそうな哺乳類鰭脚類(ききゃくるい、ヒレアシの意味)のトド」ではなくて、この場合は魚なのです。ボラが育った最終形態なのです。とどを、私は食べたことがありません。おいしいのかな?それとも美味しくないのかな?噂によるとぼらのほうは、煮ても焼いても刺身で食ってもまあまあ美味しいそうです。とどになってしまったら、美味しくないから人気がないのかな。「とどのつまり」の語源は「ボラの最終形態」の魚のことなのです。

「いなせ」のイナもボラです。ボラの若魚です。関西風に言うと、ボラとイナは呼びわけますが、関東では「イナボラ」とくっつけて発音するところもあるようです。見方にもよりますが、背鰭(せびれ)がやや青がかかった銀色で、見た目がカッコよかったらしいです。江戸時代には、相撲取りといえば「大銀杏(おおいちょう)」、役者といえば「イナ背銀杏(いなせいちょう)」。カッコいい男の髪型のことを「いなせな髪型」と言います。いなせはここから来ています。

「おぼこい」とは概ね「幼い」という意味です。「おぼこ」はボラの幼魚です。これを無理矢理形容詞にすれば「おぼこい」となります。おぼこいもまた、ボラが語源なのです。

先程も申し上げましたとおり、お花や生物や我々の食べ物のうち、青い色をしたものはまず見かけませんが、ボラの背中は見る角度によっては、青く光って見えるそうですが、特にボラの若魚のイナにその傾向が顕著なようです。若者のことをディスる時に江戸時代には「二才」と言ったらしいです。イナの背中に引っかけて「青二才」と呼んだのです。

それにしても「若いとディスる」ねえ。今だったら「若いと羨ましがられる」だけでしょう。その昔、私は、親戚のおじさんたちに「若い衆」と呼ばれて、むっとしました。何故むっとしたのだろう?名前で呼んでもらえなかったから、かな?長いこと謎でした。今わかりました。ディスられたと思ってむっとしたんだ。

 

私は経済学部経済学科卒業です。私の時代はまだ「マルクス経済学」(略してマル経)を修めることが当然だと思われてました。私もおとなしく習いました。苦しみの1年でした。それを4年間繰り返しました。マルクス経済学というくらいだから、マルクスの代表作の「資本論」も、さぞや「社会主義」に傾倒した著書なんだろうな、と思ったらそうではなかったです。カール・マルクスの「資本論」を和訳した本を読破しました。私は英語が苦手ですので、原書が読めません、そもそもあれは英語だったのかなあ、そうだとしたら、読むことはできなくても英語だなとはわかるぞ。カール・マルクスは確かドイツ生まれでイギリスで活躍した人。あれはドイツ語だったんじゃないのかなあ。ま、全然読めないという点では似たようなものです。和訳されたものを必死に探しました。資本論はやたら長かったです。書かれてる内容は「資本主義経済の悪口」と「ならばどのようにすればいいか」の代替案でした。その中で「極端な代替案」として隅のほうに小さく「社会主義(呼び方は違ってた、たしか)」が紹介されてました。自分としては大学で経済を一生懸命勉強したつもりだけど、役に立ったやら立たなかったのやら。どっちかというと全然役にたたなかったな。ここでこのように申し上げます。経済と言う言葉は「經世済民(けいせいさいみん)」の略です。国家を經くし(よくし)民を済う(すくう)という意味です。かく言う私も民ですから、救って貰えるんだってことかしら。

 

テレビコマーシャルで渡辺杏(杏だけだったかな?)も、このように言ってます。「安心安全」。ネクスコ中日本のテレビコマーシャルでも言ってたかな。最近はちょくちょく聞くようになりました。あんと言う部分が軽く韻(いん)を踏んでたりして、使うと気持ちいいみたいですね。あんという言葉の韻を踏むのが「杏さん」なんて、3重の韻(いん)だと制作監督はほくそ笑んでるかもしれません。しかし、私にはこれが言葉被り(ことばかぶり)に聞こえてならないのです。たとえコマーシャルでも、言葉被りは避けたいですね(詩歌ならなおのこと)。安全という言葉の語源は安心十全です。つまり「安全」の安は、「安心」の安なのです。これが言葉被りです。ちなみに、十全とは「完全と呼べるほどでもないけど、必要かつ充分だ」と言う意味です。主に心の動きなど(つまり形がないもの)に用います。明治時代まではしばしば使われた言葉だったのですが、今では使う人も全滅です。はっきり言って死語です。

 

「天気」という言葉をご存知ですよね。知らない人はまずいないと思います。これはあくまでも一説だから「ふーん、そうなのかしら」とお気軽にお聞きください。天気の語源は観天望気だと思います。観天望気は辞書などでは「それぞれの土地で昔から言い伝えられてる気候に関する情報」のことと紹介されてます。虹がかかったから明日は雨、とか、夕焼けがきれいだから明日は雨、とか、山が笠雲を被ったから明日は雨、とかです。言い伝えによる天気予報のことを観天望気というのですが、この言葉を私に教えてくれた人(大学の友人)も、私自身も「これこそが天気の語源だ派」です。しかしインターネットを探ってみても「天候についての言い伝えのこと」としており、「天気の語源」だとは一言も触れていません。 東京に住んでた頃にテレビで見たのですが、霞ヶ浦周辺に暮らしてる漁師さんの観天望気を問う、そして現代の天気予報とどちらが正解率が高いか、という特集をやってました。今まで見たテレビ番組の中でも一番おもしろかったです。その番組での天気予報の的中率は約83%でした(案外高いな)。一方、霞ヶ浦の漁師さんの観天望気の的中率は約80%でした(これまた案外高いな)。 当たる時は当たるようになってるんですね。いにしえの文献をひもといてみると、観天望気のほうが天気の登場より古いのです。でも学会においては「それだけでは理由としては弱い」の立場みたいです。間違っていたらごめんなさい、でも覚えておく価値はあると思います。

 

私は書道四段です。字を書くのが得意、というほどのものではありませんが苦手でもないです。私が通ってた書道教室は毎年1回、表装できるほどの大きな半紙に、普段は習わない字を書いて、掛け軸に仕立て上げる、という行事がありました。まだ私が小学校四年生の時に、はじめてその行事に参加させてもらいました。その時書道教師に与えられた文字が「百折不撓(ひゃくせつふとう)」でした。私はすかさず書道教師に「どーゆー意味?」と尋ねました。すると書道教師はこのように答えました「 撓(とう)という字は『道端に倒れる』という意味だ。折は膝をつく。百は数えきれないほどのたくさん、つまり『たとえ数多くひざまづこうとも決して道端に倒れることはない』という意味だ 」と言われました。小学校四年生の私には、解ったような解らなかったような。

「不屈の精神力」とスポーツ新聞などでよく言われますけど、この「不屈」とは「 不撓不屈」の略語なのです。ふとうふくつの意味はもうわかりますよね。

 

居酒屋などで酔っぱらいがぐだぐだとくだをまくことを「ろれつが回らない」と言います。ろれつは「呂律」と書くのですが、 何故だか知ってますか?呂律の語源は何でしょうかね。実は呂律とは、中国漢民族音楽の音階に出てくる「十二律」から発祥した、日本民族音楽(専ら雅楽)の、りょ音階・りつ音階のことなのです。律が明るい調べ、呂がマイナーな調べです。十二律では、音楽は12音階で構成してると看破していますが、それぞれの音階の調べは5音で作られてます。 いわゆる「ペンタトニック」ってやつですね。民族音楽はペンタトニックが殆どだと言われます。ちなみに、本場中国では「律呂」と順序が逆です。

 

今回は、今までで最長の長文かもしれませんでした。根気よくお付き合いくださいましてどうもありがとうございました。それではごきげんよう、さようなら。