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長過ぎね?俺の随筆(その21)『冠婚葬祭』

長過ぎね?俺の随筆

こんにちは。お元気でお過ごしでしょうか?お陰様で私は相変わらず元気です。相変わらずというと、毎食の食事介助してもらう時に窓の外に見える景色は、相変わらずの究極です(やってもらっておいて「相変わらずの究極」とは何を言う)。どんなことを考えてるのかというと、「あの鳥はカラスだなあ。ハシボソカラスかなあ?ちょっと小さいと聞いたことあるけど、何と比べてどれぐらい小さいんだろう。ま、確かに俺がかつて名古屋市内で見掛けた、いつもゴミ箱を漁ってるハシブトカラスよりちょっと小さいわなあ」「右端に見える山はたぶん道灌山。正面に見える山はたぶん八曽山だなぁ。最近あの山でヒトゴロ○、被害者は子供。あの事件はどうなったんだろう?たしか父親が出頭したんだっけ?出頭と自首と何が違う?(実はうっすら知ってる)。その後何も続報を聞かないところを見ると、やっぱり精神の整ってない人だったのかなあ。病気のせいならしょうがない、そういう世の中かな。でも、社会正義はどこに行った?許せないものは許せない、正しき道徳心は今いずこ。難しいなぁ。世界のはしっこで俺に何ができる。うーん、何だかなあ・・・。俺、権力者じゃなくてよかったあ」。うーむ、世迷い言をグダグダ言ってないで、今日も「長過ぎるブログ」を書き進めてみましょう。今回のテーマは「冠婚葬祭というけれど、葬式は誰のため?」です。

 

20年くらい前のある日ある時私は、当時勤めてた会社の同僚(後輩)社員本人(本人‼)の葬式に参列しました。自分よりも若い人の葬式はかなり考えさせられますね。彼の実家がある石川県小松市まで弔問に行って来ました。 彼は長久手の愛知学院大学卒業で名古屋営業所で中途採用された人でした。死因は心筋拡張症というよく聞く病気です。亡くなった時の彼の年齢は33(かなり早いな)。よく覚えてないけど、私はその時アラフォー過ぎ。私より10才位年下でトシは離れてるし、彼は元来からの無口で酒も飲まないとのことで、サラリーマン得意のノミニュケーションもできないし、決して全く「嫌なやつ」とは思わないけど、話しが続かないから普段からあまり積極的に会話を交わしたことはありませんでした。でも数少ない名古屋営業所の同僚です。死んでしまって悲しいし寂しいです。葬式には参列するのが当然。しかし明日の仕事もあります。思い悩んでいる時に響いた「よし、葬式の代わりにお通夜に行こう」の上司の一言で、会社の備品の数珠や黒い腕章を引っ張り出して、社員及び下請け合計10人で2台の会社の営業車カローラバンに便乗して夜中に行きました(カローラバンは狭かった)。

彼の最期の言葉は「くやしい」だったと聞きました。その気持ち、わかるような気がするなあ、あの年齢では無茶苦茶悔しいだろうなあ、カローラバンの狭い車内は(たぶん初めて)彼の話題で静かに盛り上がりました。彼の小松市の実家に着いて、ご遺体に手を合わせて、一休みしてた時のことです。家の奧から、彼の子供とおぼしき3~4才の女の子が大きな声で「おかあさん、おしっこぉ」と叫びながら、懸かってた背の低いのれんを両手で掻き分けながら出て来ました。するとそれを追うように、のれんを掻き分けながら奧から喪服姿の30くらいの長身の女性が出て来ました。状況から、彼女が「おかあさん」と呼ばれた人に違いありません。ということは、彼女が亡くなった彼の奥さんに違いありません。彼には奥さんがいらっしゃることは聞いたことがあったけど、今日までに誰も奥さんを見た者はありません。もちろん子供の顏もわかりません。子供が何人いるのかさえも誰も知りませんでした。彼女は我々に会釈しました。我々みんなも彼女に会釈しました。

その時です。私は突然こんな思いに襲われました。

 

葬式の主人公は誰だろう?葬儀場の「あなたに寄り添うお葬式」のCMのせいで勘違いしやすいけど、例え質問しても何も返事さえできないので、死んだ彼が主人公ではないな。死んでるから意識がなくてわからないもんな。そうか、生き残った奥さん、彼女が主人公だ。娘たちも主人公だ。逆縁(親より子供のほうが先に死ぬこと)を味わった彼の両親も主人公だ。

 

いや、待てよ。極端に言えば我々も主人公だ、と思いました。「我々も」どころではなく「我々こそが」主人公ではなかろうか、とさらに重ねて強く思いました。生き残った奥さんは、確かにこの会合の主催者(つまり喪主)に違いないけど、「この会合誰のため」と聞かれたら、「彼女のためだけの会合」じゃないのではないでしょうか。彼女は我々の想像を絶するほどその事実を思い知らされてるはずです。葬式とは、参列者に「彼はもう死んだよ。会話を交わすことさえ出来ないよ」と思い知らせるためのセレモニーではなかろうか。近親者は充分に思い知らされてるだろうから、今さらわざわざセレモニーを開催してまで思い知る必要はないのではないか?我々に知らせるためのセレモニー。それが葬式の目的なのではなかろうか?と思いました。死んでしまった彼はもう、主人公になれなかったのです。

 

冠婚葬祭と言われる言葉があります。私は「なんでおめでたいことと(結婚の婚)、忌むべきこと(葬式の葬)を一緒に並べるのだろう?」と長いこと一人疑問に思ってました。

でも一緒にするのが当然でした。主人公になるべき人は、単なる「シンボル」だったのです。冠も婚も葬も祭も、似たようなものだから、同一に語るのは当然でした。人のあり方生き方暮らしかたが変わった時に、人はセレモニーをするのです、関係者に思い知らせるために。冠婚葬祭とは「肝に銘じよ」というセレモニーだったのです。戴冠式も結婚式も葬式も個人的な褒章も、並列に語られるのが当然でした。4つとも、当の本人が主人公などではなく、関係者もしくは、招かれた第3者の来客こそが主人公だったのです。

 

葬式は忌むべきもの、戴冠式はおめでたいもの、結婚式は喜ばしいもの、褒章披露会は気分高揚するもの、実はこれらの4つは、元を正せば「似たようなもの」だったのです。私は、来客でもあるけれど、主人公でもあるのです。難しい立場です。だから、礼儀作法があんなに難しいのですね。礼儀作法は、人の行動を縛るためにあるのではなく、難しい場面で人に行動のしかたを教えてくれるものだったのです。

 

このトシになると、書かせてもらってるブログでも「死んでしまう」ことについてのテーマが散見されます。うーん、身近な話題だからな。ある程度は、止むを得ない。またやらかすかもしれません。だけど、やらかすつもりもないではないです。 今までよりエグいやつの下書きを始めました。別に、エグくしようと思ってしたわけじゃありません。一番関心があることだから、書こうとしているのです。だけど、今までにいくつの下書きを破棄して来たことでしょう?はたして出来上がるかな?。付き合わされる読者様にはたまったもんじゃないだろうな。わかります。どうぞ我慢してお付き合いください。そして、今回も最後までお付き合いくださいましてどうもありがとうございました。次回のテーマは「芸術って何?」の予定です(深そうだ、長そうだ、怖いよぅ)。それではご機嫌よう、さようなら。