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長過ぎね?俺の随筆(その25)『バンドの浮沈は運、そして〇〇の浮沈も運』

長過ぎね?俺の随筆

こんにちは。お元気ですか。私は元気です。しかし検温の時今日も「体温が高いね」と言われました。コロナ(逃げ切った)でもインフルでも風邪気味でもないのになぜなんですかね?やがてナースさんがやって来て「脇に挟むタイプの体温計」を挟んで、36度6分、高くはありません。「はい、平熱」でおしまいです。あまりにも毎度毎度のことですから、ナースさんもなれっこなのでしょうか。慣れられたらいざと言う時さすがにちょっと困ります。非接触タイプの体温計と相性が合わないんでしょうか?あっ、どうでもいいな。それでは今回もブログを書き進めてみましょう。今回のテーマは「バンドの浮沈は運、そして○○の浮沈も運」です。

「運」と言われると衝撃的、なのにもしかして続きがあるの?まあ、おたのしみに。

 

大学生時代の私は、専ら(もっぱら)音楽のバンド活動に勤しんで(いそしんで)ました。以前のブログでも書いたとおりです。「音楽」なんていう、生きて行くのには何の役にも立たないことを散々やりまくった挙げ句、「これで最後」と心に決めたコンクールにまたしても敗れた時に(やっぱり敗けたのね)、私がようやく辿り着いた結論は「バンドの浮沈は才能じゃなくて運」でした。

 

なんで負けたのだろう?才能も技術も遜色なかったはず(ちょっと思い上がり気味だけど、その時は本気)。うーん、バンドとしての成功or泣かず飛ばずが 才能や技術力不足のせいでないとしたら・・・・・もうこれしかないか・・・・当初は消去法で決めたけど、あまりに滑稽無糖な結論に唖然としたけど、今では確信に変わりました。バンドの浮沈は運で決まると思います。

 

ちょっと待って、浮沈?もしかしてあれの浮き沈みも?・・・・あれって何?・・・・続きは、まあ、お読みください。

 

最終最後にギターを置くまで、思ってました。「音楽の才能を我が手にしたい。もう少しだ。きっとそこには幸せが待ってるに違いない。手を伸ばせば届くかもしれない」欲しくて欲しくてたまりませんでした。手を伸ばせば届く、頑張れば届くんじゃないかと思ってました。

 

でも、どうしても理解できないこともありました、って言うか不思議でした。敗れて打ち捨てられた者たちの行く末のことです。大多数の選ばれなかった者たちは、雁首そろえて一敗地にまみえたのですが、彼等の多くは「そうまでなるか?」というぐらいズタボロでした。よっぽど思いが強かったのでしょう、何を見せても目は虚ろ、何を聞いても上の空、何を言わせても辻褄が合わない返事のしかた。幸いにも私はそんな感じにはならなかったのですが、その時私は思いました「もし神様がいるなら、神様というやつは慈悲もへったくれもないな。人間というものは見た目よりずっとずっと弱っちいな。ところで俺はなぜこんなところにいて、なぜこんなことをしてるんだっけ?」我に返った、とでも言うべきなんでしょうか?それまで私は見ても見果てぬ夢の中(夢というのが二重の意味、わかります?バンド成功の夢と今夜見た夢、ちなみに現在私は夢を見ることはできません、寝てるんじゃなく気絶してるだけ、睡眠じゃないから夢もない、意識消失と言います)、敗れた時自暴自棄的ではなかったことだけが救いでした。

 

勝者となったシャネルズ(ラッツ&スター)、サザンオールスターズ、赤坂小町(プリンセスプリンセス)の3組にはあって、敗者たちになかったものは何だろう?と長いこと考え続けました(俺も敗者だけど)。

 

音楽を競う(せりあう)つもりなら音楽の才能はあって当然、しかも才能の個人差は殆ど(ほとんど)ない。才能豊富な人ばかりが集うこの場においてはその差はほんの僅か(わずか)しかない。

 

音楽を競う(せりあう)つもりなら演奏する技術力もあって当然、もともとかなり高い。練習さえ怠らなければ自ずから(おのずから)増える。しかも人に見せるためには最小限あればいい。心配しなくてもいい、すぐに上手くなる。

 

違いとは、音楽の才能ではありません。良い運を捕らえただけです(悪い運ではありません)。浮沈を左右してるのは「運」だけだったのです。敗れた理由は俺たちに才能がなかったからとは決して言えませんでした。 でも「負け犬の遠吠え」みたいですよね。負け犬の遠吠えとして言いそうなこととは「審査員の人選ががさつでどうしようもない」でした(言いそうでしょう?)。

 

違いとは、バンドの見せ方・作り込みを意味するいわゆる「プロデュース力」でもありません。確かにシャネルズには専属プロモーターさえいました。その手口の鮮やかさと得られた成果の大きさに、シャネルズのプロモーターに向かって「おめえら、プロか?アマチュアじゃないんかい?」。いいえ、間違いなくアマチュアでした。そのステージパフォーマンス(顏の黒塗り)、その選曲(ドゥーワップと呼ばれるジャズ)、彼等はまだアマチュアですから、入場料さえ500円以下なら、他人の書いた曲でも使い放題だったのです。シャネルズはこの制度を巧みに利用してました。良い運を掴むのと同時に 彼等には「視覚的に驚嘆させる」副賞的才能が与えられたのです。聖飢魔IIのデーモン小暮閣下も金爆の樽美酒研二もセカオワのDJ Loveも登場前です。「日本初の顔面の着色」です。見事にタイミングも掴みました。我々を諦めさせるのには充分でした。

サザンもひと味違いました。メジャーデビューしてから10年くらい経ったある日突然、その当時リードギターを担当してた大森というやつ(なぜかやつ呼ばわり)が中途脱退しましたが、彼は「バンドの売り込みとは、こうやってやるんだ」と身をもって教えてくれた人でした。最終的にはとある宗教の信仰問題で辞めさせられました(声のかけすぎ)が、ああまでしないとメジャーの目は惹き付けられないというお手本のような人でした。そしてサザンは確かに素晴らしい歌を歌ってました。「砂に濡れた涙(勝手にシンドバッドの原題・ホーンセクションがないからガチャガチャしてる)」「茅ヶ崎に背を向けて(ファーストアルバムにも入れたと思う)」「今宵あなたに(これも入れたと思う)」などは確かに名曲でした。しかし彼等だけは良い運を捕まえました。そのお陰で「ポッと出のバントに見られるファーストインパクトを永続きさせる才能」も与えられたのです。元々持ってる音楽の才能と共に、それはそれは激しく燃え上がりました。その勢いで、アマチュアバントとしてだけじゃなくメジャープロとしても成功したのです。本当に凄かったのは、勝手にシンドバッドではなく、いとしのエリー (盗作疑惑がある・私もある派)でもなく、C調言葉にご用心・チャコの海岸物語・恋人も濡れる街角・あきらめの夏・私はピアノなどの楽曲のできばえと、それを発表できた運だったのです。才能もあって運も掴んだ、副賞も手にした、その後の売り込みがあったから、今があるのです。上手い売り込みでした。私も一度だけ声を掛けられました。「俺たちが凄いんじゃない、生命体としてのサザンというバンドが凄いんだ。でももっと凄いのが俺たちの精神世界だ。君も上手く行かなくて落ち込む時もあるだろ?そんな時は勤行(ごんぎょう)を唱えるだけで救われる。君もやってみないか?」・・・宗教色漂うことはちょっと胡散臭い(うさんくさい)けど決して嫌ばかりでもなかったのですが、まるで連敗続きで弱ってるこっちを見透かしてるようでした。その当時彼はリズムギターの担当でした。ヴォーカル兼リードギターが桑田でした(ギターはかなり間違えまくってた)。桑田を前面に出すためだけのバンドです。でも、売り込みするにあたって尻込みする桑田を差し置いて、大森の売り込みぶりは強烈でした。リズムギターといえば、サウンド的にもビジュアル的にもバンドの中では最もマイナー。でしゃばる身じゃないでしょう?なのにあの強烈な売り込み?バンドは売り込み次第で変わるのか?

私が出した結論は「売れたのは運。運がよかっただけ。運を掴んだ。売れたのは才能ばかりじゃない。売り込みばかりでもない」でした。敗者の書いた歌も勝るとも劣らない素晴らしい歌でした。 もしかして自分たちも「やり手のバンドが奏でる曲」として鳴り響いたかもしれません。

 

才能と運は人間の目のようなものだと思います。ふたつ仲良く並んでます。ふたつの黒目の中心は、あたかも星飛雄馬のように🔥炎燃え盛り(ご存知ですか?漫画の巨人の星、虛人の干しじゃないですよ)、目の周りはコロナで光輝いてます。コロナって感染症の原因になるウィルスの名前みたいに思われてますが、本当は「発光体を取り巻く炎」のことなんです、ご承知だと思うのですが。光源が太陽の場合には金環食の時にはっきり見えます。あ、幼稚園児のお絵かきでも見られるか?

 

片方の目が才能の場合は、その🔥炎の色は「どんな種類の才能か?」です。絵かきが上手な人もいるでしょう。作曲の巧みな人もいるでしょう。掃除が手早い人もいるでしょう。衣服のセンスがいい人もいるでしょう。その時、黒目の大きさが才能の大きさです。その時おとずれた運と同じ色なら、なお一層激しく燃え上がります。人間の目ならあかちゃんであっても11ミリ±1ミリだそうです。そんな中、唯一育成することができるのがコロナの光輝き方です。練習や経験を重ねる度に光るようになります。どのようにしたらまぶしく見えるのかを段々解って来るのです。副賞もついて来ます。でも、運さえ掴めば才能も燃え上がりますが、経験したからと言って相変わらず黒目の大きさは変わりません。アインシュタインが特殊相対性理論の式を発表したのは26才の時です。「発表することが才能」とまでは申し上げるつもりではないのですが、才能には年令は関係ないのです。持ってる人は若い頃から持ってるのです。

 

一方、もう片方の目が運の場合は、黒目の中の🔥炎の色は「俺を輝かせると、どんないいことが起きるか?」を示唆しているのです。 それに付いて来た副賞もコロナの場所で眩しく輝きます。光り輝くことは何よりも貴重です。運を手にすることができたのですから。しかし、服装の着こなしの才能がある人がバンドのファーストインパクトの副賞をもらったって何の役にも立ちません。ここに差があるのです。運の大きさ自体は個人差はほとんどありません。眩しいか眩しくないかです。才能の目と同じ色かそうではないかです。全ては捕まえた運次第だったのです。つまりこれこそが「幸運」です(悪運を掴んだらサイテー)。幸運を掴んだら、何らかのいいことは必ず起きます。その時、もう一方の目、つまり才能のほうが似た色であればあるほど、コロナを含めた黒目が大きければ大きいほどより良いことが起きるのです。色合いは掴んだもの(掴んだ運)で決まります。色合いが似てないと頓珍漢な「いいこと」が起きて、自分では気が付くことができません。本当にほしかった運は、喜んでる当人の橫をそ知らぬ顏して通りすぎて行きます。「俺が本当の幸運なんだよ。じゃあね。バイバーイ」。

 

その色あいは両方とも自分にはどうすることもできません。せめて才能のコロナ(唯一自分が何とかできるところ)を輝かせるしかありません。チャンスはたくさん流れて来ます。いくつもいくつも流れて来ます。でも手にできるのは一個だけ、他のチャンスは本物の幸運じゃないものを握りしめたまま、みすみす見送らなければなりません。「あー、行っちゃった。でも手掛かりになるものを捕まえたからもういいや」とばかりに、握り締めた手を開いてでも捕まえるべきと気がつくことはできないのです。私たちはせめて少しでも気が付けるように、普段から「才能の光輝き方を強くしたい、コロナの輝き方を磨きたい」と待ち構えてることしかできません。磨いた人だけが勝者になれます。しかし、磨き続けた人も勝者にはなれない場合が多いです。この「幸運」に巡り合わなければどうしようもありません。いいことがあっても気がつきません。おおぜいに埋もれて行くだけです。実は優れた才能があるのに運を掴めなかった人は市井(しせい)にたくさん埋もれているのです。才能はあるのに、掴みたいものを掴めなかっただけなのです。成功者だけが才能溢れるというわけではありません。才能ある者だけが成功者になるわけでもありません。才能量のチャンピオンはすぐそこにいるのです。しかも自分の才能に気が付いてません。

 

プロ野球選手で考えるとよくわかります。彼等には野球の才能がありました。技術力はもちろんあり、野球は、野球だけは抜群にうまいです。売り込みも、自分で意図していようともいまいとも少なくともスカウトの目には止まったわけだから形の上では売り込みも成し遂げた。運も「ドラフトで指名される」という何十万に一人という幸運を掴めたから、充分にあった。後は「運」の黒目の🔥の色と、「才能」の黒目の🔥の色が似てるかどうかを待ってるだけ。プロ野球選手になることができるのも運だけど、そこで活躍できるかどうかも「運次第」だとは思いませんか?そして戦力外通告を受けた彼はすぐ隣にいるのです。

 

将棋棋士の藤井聡太さんに当て嵌めてもよくわかります。彼はなぜこの時代に若くして頭角を現したのでしょうか?将棋には2種類の段位があります。一般的に「俺は将棋初段」と言うのは「アマチュア初段」です。各県の将棋連盟がくれた段位がアマチュア何段です。これに対して日本将棋連盟が直営しているのが「奨励会」と言うプロ集団とその予備軍なのです。ここでの4段以上を「プロ棋士」と呼びます。3段以下はプロではありません(年令制限あり)。3段以下の彼等をプロ候補として「奨励会○段(級)」と呼びます。アマチュアとの差ですが、アマチュア4段と奨励会3級くらいが同等と言われています。かつて私も奨励会5級を受けたことがありますが、小学生に対して四間飛車高美濃囲い(しけんびしゃたかみのがこい)で挑んで、弱点の玉頭を突かれてあっさりひねられました。竜にはなれたけど、突撃した銀(棒銀とまでは言えない)が孤立無縁で討ち死にしました。(実は私は振り飛車党。えっ?わけわからん?専門的な話しになるから詳しい話しはまた後日)。藤井さんの話しですが、小学6年の頃から奨励会に入れてもらったことから、彼にはとてつもない才能があったに違いありません。て言うか、奨励会に入ることができたというだけでとてつもないでしょう。でも、彼には「他人の指す将棋を参考にして、自分の将棋を勝たせる」という才能もあったのです。副賞としてそれが光り輝きました。ちょうどその頃にAI将棋がプロ棋士にさえ勝てるようになりました。AI将棋が強くなったという名のチャンスが、彼の目の前にまるで川が流れるように流れて来て、それを彼は見事に掴んだのです。後はそれに没頭するだけでした。

 

バンドの浮沈を決めるのは運だけど、人生の浮沈を決めるのもまた「運」だと思います。才能の大きさなのではありません。たまたま流れて来たものを、手に取ってみただけなのです。スーパーで大きいキャベツを選んでるようなものです。それが最大だとは限りません。中身がスッカスカかもしれません。だけど、自分が選んだという満足感がありすぎるから、目の前を通りすぎたものには気がつくことができなかっただけです。占ってわかるものでもありません。たくさん流れて来ますから。

 

才能だけで「飯のたね」にありつける人は、何十万に一人なのです。しかもそれは「案外苦しい」かもしれません。かつて私は社会人になった時先輩に「好きと仕事は別物だ」と教えられました。その時は「何言ってるんだかよくわかんない」状態(サンドイッチマンのギャグのつもり)だったのですが、今思うと、このことを言ってたんだなと思います。「趣味と仕事は別物」と言い換えるとわかりやすいと思います。噂によると、彼も大学に通ってた頃は凄腕のヴァイオリン奏者だったらしいです。4年生の時、某国営放送交響楽団からスカウトされたそうです。でも彼は、音大の学生ではなく明治大学在籍でした。ヴァイオリン奏者としてはかなり珍しいと思います。その時彼の口から出た言葉は「俺には学閥がない。このお話はお断りさせていただきます」自分から言うなんて、悔しかっただろうな。趣味を「好き」と言い換えたのは、そんな彼のささやかなプライドだったのでしょう。「単なる趣味じゃない」。でもそのお陰でこっちはその言葉を呑み込むのに30年かかりました。

金を稼ぐのも才能、稼いでも使っちゃったら元も子もないだろうから、金を溜め込むのも才能。ふたつ合わせてお金持ち。「人生は儚い(はかない)」それは人生というものにあれこれあるからではありません。所詮「運」だから儚いのです。才能だけに包まれながら日々を過ごせても、ただひたすらに儚いだけです。

あなたはこれでも金持ちになりたいですか?バンドをやってて成功したいですか?「きっと幸せが待ってるに違いない」と思ってるんでしょう?

 

人生の成功は才能の多少ではありません。人生の浮沈も運で決まるのです。

 

今回もまた長くなってどうもすみませんでした。最後まで読んでいただきましてありがとうございました。書き終わった後から校正のために読み直すのが私でもホネが折れました。次回のブログは「自動車の自動運転は人殺し」の予定です。それではご機嫌よう、さようなら。