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長過ぎね?俺の随筆(その26)

長過ぎね?俺の随筆

こんにちは。お元気ですか?残念なニュースが轟いていますが、そんなものに負けないように気持ちを張って生きて行きたいですね。不幸中の幸いというべきか、交通事故数は減ってます。 今回のテーマは「自動車の自動運転は人殺し」です。

 

今では私は免許返納してしまいましたが、自動車を運転する上で一番恐く感じたことは、私自身のごく個人的な感覚で申し上げると「ハンドルを握ったままで眠気を感じてしまうこと」でした。運転技術的には恐怖感を感じる操作はありませんでしたが、運転中の眠気の恐ろしさは「死ぬかと思った、ヒヤリハットどころじゃない」という感じです。 一方、私の父親(故人)に言わせると「恐いのは信号交差点での右折」でした。 私の息子(三男、免許取得当時22才)に言わせると「恐いのは車間距離を保ち続けられないこと」だそうです。離され過ぎても誰かに割り込みされるみたいで恐い、近づき過ぎても先行車から急ブレーキをお見舞いされるようで恐い、だそうです。恐怖感に苛まれる(さいなまれる)ポイントは、人それぞれなんですね。民間企業の営業マンだった私は、会社から支給されたカローラバン(商売柄LP車、だけどタクシー会社じゃありません)で、「にわかには信じられない走行距離」を毎月こなしていました。走行距離が凄まじく長いので、経験値が高いという「運転慣れ」もあるでしょうが、技術的に苦手な運転操作を自覚したことはありませんでした。だけど「もしも俺が今、交通死亡事故自爆バージョンを起こすとしたらと、俺の死因は何?」なんて言われたら、圧倒的に『居眠り運転でガードレールに激突して死ぬ』だね、と思ったものでした。最近では「自動車の自動運転」という技術が開発されつつあって(今は5段階中3段階だそう)、開発された暁(あかつき)には居眠り運転の事故は激減するだろうと言われてますね。「早くそんな時代が来ないかな?」と待ち焦がれています(免許返納したさかいに内心ではわてにゃもうあってもしょうもあれへんと思ってるんとちゃうかな、知らんけど)。運転に限らずどのようなことでも同じなのですが、例えば炊飯に炊飯器・洗濯に洗濯機・調理済み食品の再加熱に電子レンジ・食べ物の低温保存に冷凍器・掃き掃除に掃除機など、文明が発達して、いろんなことが自動化されたけど、技術のおかげで事故が皆無になった事例を私はかつて一度も聞いたことがありません(炊飯器と掃除機を除く)。何かしら必ず起こります。自動運転もそうでしょう。私も含めた誰しもが予想もできない形の事故が起こってしまうのでしょう。

例えば、もしも自動車の自動運転同士の正面衝突事故が起こってしまったら、自動運転がなぜかうまく作動しなかったことが気の毒です。でもそれがもしも側面衝突だったらどうなるでしょうか?大きな信号交差点に自分が運転する直進車が時速40キロで青信号に進入したとしましょう。その時、反対車線から「交差点を右折したい車」が交差点に進入したとしましょう。そして「ちょい出」したとしましょう。言わば「一旦停止するべき車が、一旦停止してからちょっと前に出てしまった」状態です。この時、直進車が優先で、右折希望車は直進車が通り過ぎるのを待つべきだ、というのは誰にもわかることです。

でも、何かの間違いでこの時右折車が発車してしまったら、右折車は直進車の側面に衝突してしまうかもしれません。正面衝突ならいざ知らず(それはそれで結構な事故だけど)、側面にアタックされた直進車は頭の向き、つまり時速40キロのままで進行方向が変わってしまうことでしょう。右折車不具合の責任は誰にあるのか、は別として(これもなかなかの問題)、側面衝突された車に登載されたAIは、瞬時に気が付きます。スピードは出たままですから「このままでは歩道に突っ込む。突っ込んだらどうなるか?突っ込んだら歩行者をなぎ倒してしまうだろう。死者が出てしまうかもしれない。」しかしまた、このようにも思うはずです「歩道に突っ込むのを回避するためには、急ブレーキ&急ハンドルしかない。でも、今それをやったら、特に急ハンドルのせいで車の横転転覆は免れない。今のスピードで車が転覆したら、運転手死亡の可能性が高い。さて、罪のない歩行者と罪のないドライバー、どっちに死んで貰おうか?」

 

たぶん私が選ばれることでしょう。一択です。

 

技術の発展のし過ぎは、時に「諸刃の刃」です。上記の事例は予め「どちらを生かすか、どちらを殺すか」を、AIにプログラミングしておかなければなりません。先程の「どっちに死んでもらおうか?」の解答ですが、プログラムとは生身の人間が考えることですから「歩行者の貰い事故はあまりにも気の毒だから、消去法で運転手に死んで貰おう」と考えるはずです(誰でも同じはず)。つまりドライバーは、お金を払って「いざという時は、おまえが死ね」とプログラムされた自動車を買って運転しなければならないのかもしれないのです。

そして、内心では「この人はいざという時は死んでもらっても構わないんだ」と習った、そして、そう思ってるAIにハンドルを任せる、ということなのです。いつ殺されるかわかったもんじゃありません。

 

技術の発展さえなければ「何を世迷い言を」で済んだのに。発展した未来像を思い描くのは楽しいことだけど、発展する度に新たな支障が次々に生まれて来ることでしょう。これまで我々人類はその都度工夫を重ねて、そんな困難を掻い潜って(かいくぐって)来ました。でもそれもそろそろ限界です。発展のし過ぎです。夢は夢のままで終わるべきだったのかもしれません。ただひたすら空想の世界で漂っていれば良かったのです。

技術力が人類の叡智を上回る、出会いたくない夢なき世界に、私達は出会おうとしているのです。

こう言うことが積み重なって、やがて我々人類は滅びてしまうのかもしれません。ああ、AI恐ろしや。

 

今回も最後までお付き合いくださいましてどうもありがとうございました。次回のテーマは「お買得はいい事なのか?」の予定です。それではご機嫌よう、さようなら。