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長過ぎね?俺の随筆(その17)『死ぬって何?寿命って何?』

長過ぎね?俺の随筆

こんにちは。 ご機嫌如何(いかが)でしょうか?皆さんも、ご機嫌でお過ごしのことと存じます。それでは 早速今回も「長過ぎるブログ」に取りかかりたいと思います。今回のテーマは「死ぬって何?寿命って何?」です。リクエストの多さに鑑みて、滅相もない「死」というテーマに挑んでみます。 施設のブログには相応しくないテーマだとは重々思うのですが果敢に取り組んでみたいと思います。難しめなテーマですが、どうぞ毛嫌いしないでお読みください。頑張って読みやすく書こうと思います。

 

皆さんは「死んでしまうことは恐いことだ」と思ってはいませんか?私は今では恐くはありませんが、かつては私も恐かったです。怯えてた理由は後ほど。

皆さんは「意識あるままの死後の世界の存在」を信じているのではありませんか?私は今では信じてはいませんが、私もかつては「意識あるままの死後の世界はきっとどこかに、天国地獄という形で存在する」と信じてました。意識無き死後の世界なら、叩かれようが煮られようが焼かれようが何もわからないから、その存在の有無を問うのは無意味です。あってもなくても体感的には同じでしょう。でも「宗教が語る死後の世界」とは、あるいは「意識ある死後の世界と意識無き死後の世界」の両方をそれぞれ別々に語ろうとしてるのかもしれません。きっとどこかへ連れ去られるから、我々の神様にお願いしたほうがいいよ、などと。我々の神様だけがお助け下さるんだよ、なんて。しかし、これに対してはこんなふうに思います。「だけ」なのか~?なんで「だけ」?なんか怪しさマックスだな~。と、日本人はそのように考え勝ちですね。まあ、助けてくれるなら有り難いことでなんでもいいのですが。今では私なりのその答えは「残念ながら意識あるままの死後の世界はありません、意識なき死後の世界ならあるかもしれないけど」です。ないと思う理由は後ほど。

私達は「死んでしまうこと」に対して、少々怖がり過ぎたと思います。何故怖いのかというと、その理由は6つ(またエラくたくさんあるなあ)。死を恐れずに落ち着いた日々を過ごしたい、と思うなら、まずは恐いと思う理由を明らかにして、それに対する心構え・対策を理論的に考えれば、あるいは恐くなくなるかもしれません。まずは理由の6つから。

まずひとつ「死というものが、考えても考えてもよくわからない現象」だからです。言わば未知への恐怖です。「俺は死んでしまった、しかもここは何もない暗闇の世界、一体どうしたらここから抜け出せるんだろう」と感じます。来世を信じきってるのですね。これは、精神世界(あるいは特定の宗教)に傾倒し過ぎのせいです。精神世界などに傾倒し過ぎたらこうなります。意識があるままで聞いたことも見たこともない知らない世界に、誰かの手によって強制的に連れ去られるかも知れない、と脅えてるからです。そして「俺は『いけない幽霊👻(人に憑依する幽霊)』になってしまう」と思ってるからです。自分の意識なんてあるはずがないと思うのが普通なのにね。

2つ目。もう絶対に後戻りできないというのも、怖さを助長しています。「死んでしまったら、もう2度とこの世に戻れない、生き返ることはできない」はい、事実です。生き返ることはありません。不可逆への恐怖です。

3つ目の要件ですが「ご冥福をお祈りします」。ご冥福、なんて宗教臭漂う言葉なんでしょう?(私は宗教的にはフラットですからご安心下さい)。「ご冥福」などという言葉に惑わされて「ふうん、冥土での幸福でご冥福かぁ。もしも冥土というところで幸せになれなかったらどうしよう。是が非でも連れて行かれるのかなぁ」なんてただ漠然と思ってるから、漂う宗教臭も相まって怖さ倍増です。冥土はどこかにある、と、その存在を前提として、しかし冥土というものが目には見えないという恐怖です。ありもしないのに、きっとどこかにあると思ってるのです。

そして、4つ目。地獄に落ちるという概念にも怯えてます、「そんなところに真っ逆さまに落ちて行ったら、どうしたら助かるんだろう」とか「生きてる間の行いがよくないやつだけ送り込まれるらしい。そのように習ったものだ。そんなところに送り込まれるなんて恐ろしいことだ」とか思ってるのです。地獄というものは確かに存在して、そこは真っ暗闇で恐ろしい場所と思い込んでるのです。誰でも真っ暗闇は恐いですからね。だけど、地獄なんてあるのかないのかもわからないのに。

ようやく5つ目ですが、今まで積み重ねて来た自分だけの知識と経験を、失なってしまうことを惜しんでいるからです。やっとのことで自分なりに築き上げた「それなりにうまく生きてく方法」も失われてしまいます。勿体ないなと思ってるけど、ふたを開けたら「たいしたことないじゃん」かもしれないではありませんか? そして、生きてさえいれば、この先まだまだ人生の楽しみがあるはずだと確信してるからです。楽しみ足りないと思ってるためです。ただしこれだけはあながち悪い考えではありません。生き甲斐を持つことの大切さを示唆してるかもしれません。

最後に6つ目。死後の世界の存在を前提とした「自分の行き先の選択が不可能」という恐怖です。 死後の世界がどういうものかわからない上に、もし死後の世界にたどり着いたとして、全てのその世界の様子が見えた時にも「あそこがいい」と選択できないかもしれないという恐怖です。あそこがいい、なんて幼子(おさなご)みたいです。このことを日本語で「駄々を捏ねる」というのです。

 

まとめますと、死んでしまうことが怖いと思う理由は6つ

1・未知への恐怖。どこへ連れ去られるのか不明という恐怖。

2・不可逆的だという恐怖。そうなっちゃったらもう後には戻れないという恐怖。

3・不可視の恐怖。つまり冥土というものが目に見えない恐怖。

4・真っ暗闇に対する恐怖と転落の恐怖。暗闇の地獄に落ちたくはないという恐怖。

5・喪失と剥奪を強要される恐怖。知識と経験を強制的になくすのを強いられる恐怖。まだまだ楽しみはあるはずなのに、その楽しみを剥奪されてしまう恐怖、です。

6・選択できない恐怖。死後の世界が見えた時にも「あそこがいい」と選択できないかもしれないという恐怖。

そこでここでは、そのあたりを紐解いてみようと思います。誰かが教えてくれるわけではありませんから、自分で考えてみるしかありません。この長い文章がそのような人の考えるきっかけになればいいなと思います。私には(幸か不幸か)考える時間がたっぷりあります。だからこんなことも考えてしまうのです。死生観を想う、人として必要なことだと思います、身障者でも健常者でも。そしてお互いに対策でも考えましょう(既に結論は出てるようなものだけど)。

死んでしまうことを無用に恐れてはいなくて、そればかりか「死後の世界なんてない」とさえ思うようになって以来、私は意外なことに、すっと気が楽になりました(本当)。自分でも力みがなくなったことがわかります。みんながみんな、寿命について、そして死後の世界の有無については、各々(おのおの)の考え方を既にお持ちだと思うけど、そのどれをも私は否定などしません。否定はしないけど、自分の考え方を変えるつもりもありません。私が死を恐れなくなったわけ・死後の世界を否定するようになったわけ、それはこういう考えに至ったからです。

寿命ってよくよく考えてみると不思議な言葉ですよね。その意味は「生まれてから死ぬまで」。死ぬまでって、命が終わることがなぜ「ことぶき」なんでしょう?寿の文字の意味は詳しくはわからないけど、たぶん「おめでたい」というイメージを含んでるのでしょう。「命(の終わり)がおめでたい」?

考えてみました。

生き物には何故寿命があるのかというと、 もしも自分のDNAに何かの間違いなんかで傷がついてしまったら、その設計図の傷は綿々と子孫に受け継がれて行ってしまい、やがていつかは我々は絶滅してしまうに違いありません。我々人類は時々はDNAをリフレッシュする必要があったのです、いや、しなくてはならないと思います。しかし、DNAのみ潰して後は生きたまま、ということが出来なかったのです。ううむ、できないか。ならば生体ごとおしまいにしてしまえ。だから「死」が訪れるのです。DNAのリフレッシュです。リフレッシュするために「寿命が来てくれる」なのです。断じて 「寿命が来てしまう」のではありません。 来てくれるから「おめでたい」なのです。不老不死に憧れるなら、何故私達は不老不死に進化できなかったのでしょうか。それは、種の保存・種の進化のためには必要なかったからです。それどころか「もしも寿命がなかったら困る」だったのです。欲しくて欲しくてたまらなかったことを、やっと我々「生物としての人間」が獲得できたからです。死ぬことは失なうものが多すぎて個人的には嬉しくないけど、種の保存のためには必要欠くべからざるものだったのです。ほとんどの細菌や大腸菌など、原始的な生き物には寿命がありません。天敵に食われてしまわないことと、生存できる環境があることと、生存できる餌さえあれば、死んでしまうことはありません。究極の不老不死です。でも、クローンですからみんな同じ特徴の持ち主です。一人が死ぬとみんなが死にます。例えをふたつ挙げますと、まずひとつは「腸に届く乳酸菌」腸に届くプリンとは言いません。ヨーグルトのCMなどでよく聞かれますね。「腸まで届く」を強調する理由は、通常は届かないからです。胃酸で溶けてしまいます。たとえ何億個の乳酸菌があろうとも全て溶かされます。そこで、通り抜ける奇跡に期待して(ごくまれにはある、らしい)メーカーはこのように言います「ヨーグルトは毎日食え」。ふたつ目、桜。ソメイヨシノは気候変動などによって、いつの日にか1本残らず枯れてしまうのではないかと言われています。気候変動により1本枯れるとその他の個体も同じように枯れます。全滅します。何故ならばソメイヨシノは挿し木だからです。あれはクローンなのです。人間はオスとメスの2人のDNAを持ってるから各々違う特徴があります。環境が悪くても餌が少なくても生き延びられる可能性があります。そしてこれに「こうしておけば大丈夫」という決定打が欲しいです、「種の保存」ですもの。そしてリフレッシュこそが決定打なのです。寿命が来てくれることによって、我々人間は「人間という名の種の保存」を理想的な形で実現できてるのです。古くて怪しいDNAは不要です。リセットできるとよかったのに、それはむつかしそうだと気が付きました。ならば生きてる個体ごとリセットしてしまおう、と、生体自身から要求されたのが「寿命」なのです。何故生き物は老化してしまうのかは、学術的にはよくわかっていないそうです。でも私は、老化=劣化だと思います。若い個体にはDNAの受傷など滅多に起こりませんが、医療の発達により、寿命が伸びた人間が、寿命が伸びた状態で生殖活動可能だったらどうなると思いますか?傷ついたDNAが蔓延してしまうことでしょう。人間の平均寿命は長くなりました(ホントは新生児の死亡率が下がったため)。しかし、医療のやみくもな発達によってなまじっか「不老不死に近い」なんてものを手に入れたばかりに、老化劣化による設計ミスを起こすのです。不老不死なんてただの憧れでやめて置けばよかったのです。秦の始皇帝の死因は水銀中毒だったと言われてます。水銀化合物の鉱石を不老長寿の薬と信じて飲んでしまったためです。憧れで済ませて置けばあるいは歴史が更にかわってたかもしれません。先程もちらっと申し上げましたが、命が尽きることをなぜ「寿命」と言うのでしょう。命を寿ぐ(ことほぐ)。ちょっと調べたら、寿ぐとは「お祝いの言葉を述べる」という意味だそうです。命があってもうれしい、命がなくてもうれしい、です。おめでとうの言葉を言ってあげてるのです。いったい何がめでたいのでしょうか?それは、人間と言う名の種が、この場でもリフレッシュに成功したからおめでたいのです。やはり「生物の一番の目的」は種の保存。リフレッシュしないと我々は滅びてしまうかもしれません、DNAの傷が原因で。齢(よわい)60過ぎでしかも身障者の自分がもうこれ以上生殖活動ができるようになるとは思いませんが、不老不死はすなわち不老長寿でしょうから、長寿であるが故、将来に何が起きるのかわかりません。ですから今はリフレッシュこそが子孫繁栄の大切なキーワードなのです。だから私達は滅びなくてはならないのです。今日(こんにち)の私達は、ご先祖樣が死んで行ってくれたお陰で存在するのです。リフレッシュするために、子孫繁栄のためだけに、ご先祖樣は死んで行ってくれたのです。もしも今だに生きてたら、それはありがた迷惑です。私の祖父は私がまだ小さい頃(5才)に亡くなりました。その時にはわからなかったけど、後になって「今更のように」悲しく寂しくなりました。もっと可愛がって欲しかったな。でも、私が悲しむことによって、死んだ祖父は本当に幸せなのでしょうか?死んで行ってくれたなんて、私達もそうありたいとは思いませんか?個人的にはいやだけど、子孫繁栄のためにそして種の保存のために一役立てた、と。

「死」とは「単なるDNAのリフレッシュ」なのです。恐いものではありません。必要なものです。「寿命」とは「リフレッシュするための命のONOFFの自動制御タイマー」なのです。こちらは、突然スイッチを切られるという意味においてのみ少々恐いでしょうか。知らないうちにONされていて、知らないうちにOFFされます。強制終了する人も時々いますが、それを「よくやった」とは誰も誉めてくれません。

介護職の皆さんは、その仕事上「入居者の死」に出くわすことが多いと思います。でもその神妙な顏を見るにつけてこのように思います。「死んでしまって喜べ」なんて不謹慎なことまでは言わないけど、必要以上に悲しむことはありません。葬式が終わって家に帰ると、何気ない毎日の暮らしが待ってるんでしょう?それでいいです。毎日の暮らしが一番いいです。自分の介護が手厚くなかった、なんて自分を責めてはなりません。生物の責任を果たそうとした人が最後の責任を果たしました。一人でも子供をのこしたなら「よくやった」と手を叩いて喜んであげるべきです。もし、子供を一人も残せなかったのなら「今までご苦労様」と労って(ねぎらって)あげましょう。ただそれだけでいいです、必要以上に悲しむことはありません。介護が手厚い手厚くないは今は関係ありません。

いかがでしたでしょうか。この長いブログが「皆さんが死生観をより深く考えていただく」きっかけになれば幸いです。私の見解なんて全否定されても構いません。皆さんがそれぞれ自分なりの考え方を持っていただく手助けになれば嬉しいです。我々身障者と、身障者のすぐ近くに居続ける人達(介護して下さる人)にとっては「不変(あるいは不偏)な死生観」はとても現実的で大切なものだと思います。

今回も果てしなく長文でした。読みにくかったでしょうか?できるだけ平たく書いたつもりなんですけど、そのせいもあり果てしない長文になってしまいました。  最後までお付き合いくださいましてどうもありがとうございました。それでは、ご機嫌よう、さようなら。