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長過ぎね?俺の随筆(その31)『勝負』

2023年8月1日
長過ぎね?俺の随筆

こんにちは。ご機嫌いかがでしょうか?私は相変わらず元気です。若い頃はお陰さまで自動的になんやかんやでストレス解消してましたが、年老いた今ではそうでもありません。たまってくるものもありますが、そこらへんは適当にやってます(コツでもつかんだ?)。今のことはどうでもいいとして、若い頃はいったい何がストレスを解消してたのですかね?その答えはパ○ンコでした、チーンじゃらじゃら。あの時代が懐かしいなぁ。そんなわけで今回のブログのテーマは「勝負」です。

 

私は若い頃、パチンコと麻雀が大好きでした。「でした」と過去形を使うのは、お察しのとおり、もうやめてしまったからです、いや、やめることができたからです。30才での結婚を機に(結婚は結果的にはあかんかったけど、あは、あはは・・・ガックリ)、およそ全ての賭け事から身を引いたためです。所謂(いわゆる)「3競」や違法賭博には手出ししませんでしたが、パチンコも麻雀も同じくらいに狂いました。熱中なんて生易しいものではありません。熱中を通り越してまさに狂ってました。その当時はそんな考え方はありませんでしたが、紛れもなくあれは今で言う「依存症」だったと思います。3競をご存じですか?競輪・競馬・オートレースの、通称「公営ギャンブル」です。嵌まる人はハマリますが、何故か私は嵌まりませんでした。「周回して来て初めて決着」という時間がまどろっこしかったんでしょう。パチンコなら銀玉を発射する度に入ったか入らなかったかが判るし、麻雀なら出番の度に通ったか通らなかったかが判ります。今思うと、その時のスリルが楽しかったんでしょう。スリルばかりを楽しんで勝負だけに徹してませんでした。その結果、ガッカリするほど弱かったです。もしもその時これら3競にも嵌まっていたら、私は大変なことになってたのではないかと思います。

やめる直前のある日(パチンコに大負けした日、たったの3万円負けた時)、突然フと我に帰って、全ての賭け事から身を引きましたが、身を引いた時に、私はやっと気が付きました。 「パチンコの正体は才能でも運でも技術力でもなく『確率』だった。しかも正しい確率論に基づかない、勝ち負けが半々じゃない(=パチンコ屋の取り分を差し引いた)確率ゲームだ。負けベースに作られている。だから負けても当然なんだ」と。必勝法なんてあり得ない。必勝法について書かれた書物をよく目にするけど、書いた人はただ、たまたま勝てる確率が上がる店に立地的に巡り会っただけ(近所にただあっただけ)。拝んで読むようなものではない、と思いました。また、このようにも気がつきました。「最初はビギナーズラックに恵まれる人もたまにはいるけど(私のこと)、一旦負けベースに陥るとそこからは誰も抜け出せない(これも私のこと)ように作られてる」。こう気付くのが遅すぎました。

 

次に、麻雀についてですが、麻雀の勝負の本質とは「麻雀は、強い者が勝つのではなく、弱い者が負ける」です。強くなれなかったわけでもなく、ツキに恵まれなかったわけでもなく、ただひたすら弱かっただけです。強い者が勝つのではなく、弱い者が負けるのです。プロ野球の話しで恐縮ですが、あの名将の故野村克也監督もこう言ってます「勝ちに不思議な勝ちあり。負けに不思議な負けなし。勝ちの理由は思い当たらない時もあるけど、負けの理由は必ずある」。これはスポーツの勝ち負けについて述べた言葉だけど、ギャンブルの勝ち負けについてでも言える言葉だと思います。

 

こんなことくらい、もっと早く気が付くべきでした。そのせいで、いかほど金と時間を無駄にしたことでしょう。若さ溢れる貴重な時を。

・・・・こうやって書いてても悔しさが滲みます。その頃はまだ「あだ名禁止」の世の中ではありませんでした(今のあだ名禁止は小学校だけか)。しかし、その当時私が後輩たちにつけられたあだ名が

「○○○サンタさん」

○印には苗字が入ります。会社の後輩たちにこう呼ばれてました。麻雀なんかをやって卓を囲んだ時、いつも無償のプレゼントを持ってきてくれる存在だという意味だそうです。くそー!くっくっくっ悔しい!

人は何故賭け事をするのでしょうか?私は何故麻雀とパチンコに嵌まってしまったのでしょうか?

ギャンブルの麻薬性?「いかにも」という答えです。用意された言葉みたいで、とても「信じるに値」しません。だけどなぜ何故、麻雀とパチンコだけなのでしょうか?

 

それは「勝ちきる方法がきっと見つかる。ひょっとしたらこの俺は今、かなり近いところにいるのではないか」と勘違いしてしまったためだと思います。今にして思えば、これこそまさに「勘違い」でした。自分の愚かさ加減を笑うしかありません(冷笑)。

 

ここで私にもし「物事を教えてあげることができる後輩」がいるとするなら、私はこんな助言をしてあげることでしょう。麻雀もパチンコも金と時間の無駄遣いになるだけだから、ただ「やめとけ」。・・・・と言いたいところだけど、そのように言うのではなく、「とことんやってみろ、何か見えてくるものがあるかもしれない、ただし金は惜しむこと」と心から助言してあげるのに違いありません。してあげられる、と信じたいです。生きてきた意味がこの話しには有りそうだから。

 

ああ、年寄りの考え方だな。俺もトシとったな。でもこれはこれなりに、一生をかけて私なりに掴んだ極意かもしれません。

 

知るということは、自力で思い知る(知らされる)ことです。自力で?思い知らされる?それは「ひどい目に合わされる」ということなのか?うん、ひどい目にあいました。これは麻雀やパチンコが好きな者の宿命なのかもしれません。

 

そのお陰か勿体なかったのか、年月を重ねて、多少は暮らしに余裕ができてからでも、株や先物取引にはいっさい手を出しませんでした。投資を「ギャンブル」と捉えてしまったのですね。行き過ぎかなあ。だけど確実にこれだけは言えます。ギャンブルにあけくれた挙げ句にたったひとつ俺が手にしたものは「投資には近寄らない」だけです。それはそれでよかったのかよくなかったのかは知らないけど。

 

また今回も長いお話しになりましたね。今回も最後までお付き合いくださいましてどうもありがとうございます。次回のテーマは「占いって何?」の予定です。それではご機嫌よう、さようなら。