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長過ぎね?俺の随筆(その12)

2021年12月29日
長過ぎね?俺の随筆

 

このブログがアップされるのは1月かな? 新年明けましておめでとうございます。このブログにとって初めての正月を迎えました。今年も私は頑張ってこのブログを書き続ける覚悟です。今年も何卒よろしくお願い申し上げます。

 

今回は、私が脳卒中とそれに続く医療事故によって倒れる日まで勤めてた会社の、創業社長のお話しです、もう既に彼は亡くなったのですが。

私が大学新卒の時に最初に入社したのは、名古屋に本社がある東証1部上場の某機械商社(の営業マン)でしたが、約6年で転職しました。転職先は大阪に本社がある、ジャスダック市場上場の某センサーを使った装置器機メーカー(の営業マン)でした。そこで22年勤めました(ある日突然勤務中断したけど)。機械商社の営業マンから装置メーカーの営業マンへの転職です。なんだ、商社とメーカーの違いがありこそすれ似たようなものじゃないか、と思われそうですが(私もそう思った)、いざそこに行ってみると全然別世界でした。私が転職した会社の社長は、私が見た限り、イエスマンばかり身辺に集めて、他人からの忠告にはいっさい耳を貸さず、他人の話しは聞かないで周りに命令ばかりしてました。中途入社の私は「こりゃまたワンマンな社長だなぁ、他の人はこれでも平気なのかな、これは大変なところに来てしまったんじゃないか?」と思ったものでした。従業員300人強のいわゆる「中企業」でした。ほどなく、この創業社長はなぜかある日突然、誰にも相談することなく、40年間近く居座り続けた社長の座を血縁がない副社長に譲って、自らは代表権がない非常勤の名誉会長に退きました。そして退いてから1年も経たないうちに亡くなりました。まるで自分の死期を悟ってたみたいです。自分自身で代表権返上を決めたあたり、しっかり跡継ぎの副社長にに引き継ぎできたあたり、最後だけは偉い人だったと思いました。驚くべきことに彼の葬式では参列者全員が男であれ女であれ号泣してました。ハンカチは涙でグショグショ、ネクタイも涙でグショグショ、上着すらも鼻水と涙とよだれでグショグショ、みんなひどい状態でした。わんわん泣いて、やかましいの何のって。「何だか知らないが、あんなにワンマン社長だったのにずいぶんみんなに好かれてたんだな」と思いました。その号泣の理由は後になって知りました。なるほどと唸る理由がありました。

毎年の新年の挨拶は課長代理以上を大阪の本社内のホールに一堂に集めて、演説するのが習わし、この社長のやり方でした。毎年同じ話題でした。この業界は、市場規模が小さい業界でした。とある既知のセンサーを使った工業用製品を、家庭用にも使えるんじゃないかと考案したのは創業社長自身(もともとは研究者)だけど、会社的には業界売上No.1ではありませんでした。発明者が在籍するのにも拘らず、業界内では5社中3位に甘んじてました。大手メーカーからの途中参戦の前に連戦連敗でした。そこで社長は社員たちに毎年始めにこのように言いました。「No.1にならなくてもいい、オンリーワンになればいい。この業界にひとつだけの花を咲かせようじゃないか」これを聞いて読者の皆さんは必ずやこう思ったはずです「あれえ?あの曲の歌詞じゃないか?」

私がこのセリフを初めて社長の口から聞いたのは確か1980年代の中頃(昭和60年ぐらい)の、恒例の新年社長公演会の時でした。「あの曲」すなわちSMAPの世界でひとつだけの花は確か1995年か96年ぐらい、平成にはいってすぐの曲です。10年近くの時差があります。思わず私は「あらぬ義憤」に心を持っていかれそうになりました。「盗作じゃないか、出るべきところに出てやろうか?どうせどこかの講演会ででも聞いたんだろう」と。私が転職した企業は、世間的には殆ど無名の会社でしたが、地元大阪ではFM大阪の時報のスポンサーになったりして、それなりに名が知られてました。講演会で社長はあちこちから引っ張りだこでした(実態的には安価で有名だから)。そんなどこかの講演会あたりで聞いたのかもしれません。この曲の作詞作曲の槙原某は確か枚方だったか寝屋川だったか高槻だったか茨木だったかとにかく大阪北部の地方都市出身、一方会社がある場所は新幹線の新大阪駅近くの大阪市北部、何気に近いから、出会っても何の不思議もありません。自分のオリジナルのセリフを流用された身としてはどんなことを思うんだろう?と思ったが、本人既に亡くなってるから聞きようがありません。私は一人だけで想像してみました。無断で流用されて悔しいだろうな。しかし暫くして、このように思い直しました。いや、待てよ、むしろ「よくぞ歌にして世間に広めてくれた」などと 喜んでるかもしれない と思いました。社内で何の騒ぎも起きなかったところを見ると、近くにいた人も含めて、みんながみんな「よくぞ歌にしてくれた」と考えてるのではないか、と思いました。

太平洋戦争が終わってまだ間もない頃、「テレビ」という技術が戦前に続いて再び導入(戦前当時テレビ技術開発は日本が世界一)されて、「せめて受像器だけは安価な国産品でありたい。汎用型で高価な輸入品はあるけど、それでは普及もおぼつかない」とお国が言い出して、全国的に各社で開発競争が始まりました。前身会社の福島電機製作所という会社が「勝山テレビ」(だったはず、うろ覚え)という自社開発製品を引っ提げて、勝負に出ました。なぜ勝山と言うのかは知らないけど、あとになって考えると、この時の相手が悪かったです。勝ったのは、当時の「東京通信工業」という会社、後の「ソニー」でした。結果的にはこの東京通信工業も再逆転(辞退)されて、早川電機(電器だったかな?今のシャープ)から国産第1号機が発売されました。破れ去った福島電機は、社長以下役員全員が(今ではあり得ないけど)夜逃げして雲隠れ、残された社員は、労働組合の29才の委員長を社長に担ぎ上げて会社の再建を目指したそうです。でも苦心して発足させた会社はあえなくわずか1年で再び倒産。社長に担ぎ上げられた元労働組合委員長は、私財をなげうってもう一度会社を設立したそうです。給料は毎月必ず全員分支払って、会社に残った者の雇用は守られたそうです。問題はこの私財の出所です。元労働組合委員長の実家は、その当時「大阪で一番」と言われるほどの万年筆屋の一人息子、跡取りでした。だけど「ここが勝負時」などと言っては実家の会社から金を持ち出しました。そして遂に、三たび会社が倒れそうになった時に、それまで支援してくれてた銀行の「労働金庫」から「このような状態の今となっては、我々が助けてあげられるのは、実家の万年筆屋か再建した会社のどちらかひとつだけだ」(懲戒の意味合いが強いのかな?)と言われて、即答で「ならば、もちろん再建した会社」と答えたそうです。万年筆屋はあえなく倒産しました。葬式の時に号泣してた人たちは、そのことを知っていたのです。社長は私達の暮らしの恩人だ、私達自身とその一族のまさしく「命の恩人」だ、私達の父親のようなものだった、と。そして立て直した会社が僅か(わずか)に利益を挙げ始めた時には、内部留保(いわゆる会社自身の貯金)には目もくれず「頑張って来た社員たちに還元すべき」と言って、特別期末賞与という形でみんなにばらまいたそうです(だからボーナスは年3回しかも他社より多目)。「次は私たちの番だ。みんなで社長を助けたい」それが永遠に叶わなくなりました。だからみんな号泣していたのです。社長のワンマン対策として、みんなが集まる合議制会議というものがありました。そして、普通の会社では考えられないことだけど、労働組合委員長の「あなたの業務指示には従えません。これはみんなで決めたことです。」私もしらなかったです、もちろん社長にも内緒で。普通の会社なら即刻くびです。くびになっても仕方ありません。だけど、この会社だけでは通用したみたいです。会社の生い立ちがなせる技なんですかね?

先程私は「あらぬ義憤」とカッコよさげに申し上げましたが、よくよく考えてみればこのことは「義憤」などではなく、私はただ好きな音楽で目立ちたかっただけかもしれません。志の高さ低さを思い知らされました。だからというわけではありませんが、楽曲の盗作疑惑と言えども、変に手を出さないほうが賢明だと思いました。これは「積極性沈黙」とも言い換えることができるます。しかし、残念なことに「面倒だから手を出さない」という「消極的沈黙」と姿が似てるということがあります。端(はた)から見たらどう見えるんでしょうね。何だか選挙の投票行動に似てます。かくも激動の人生を歩んだ元社長と、語ろうと思っても語る術(すべ)のない私の人生。どっちをまねしたいかなんて、火を見るより明らかです。せめて今日からは、一生懸命生きてみようとは思いませんか?やれることはやろうとは思いませんか?

相変わらず果てしない長文になってしまいました。最後までお付き合いくださいましてどうもありがとうございました。次回は「ネガティブばかりじゃいられない」の予定です。それではごきげんよう、さようなら。


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★アーカイブ「長過ぎね?俺の随筆」★
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第11回 「身障者は可能性を追求し続ける存在であるべき」

第10回 「中村八大破れたり」

第  9回 「語源。知ってる?」

第  8回 「かつて私が知りえた雑学」

第  7回 「正義って何?正義の味方って誰?」

第  6回 「〇〇できないのは案外辛い」

第  5回 「幸せって何?」

第  4回 「博愛」

第  3回 「愛って何?」

第  2回 「仕事するって何?人は何のために働くの?」

第  1回 「ここのような施設の入居者たちには、介護スタッフの人たちがどのように見えているのか」