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長過ぎね?俺の随筆(その2)

2021年3月20日
長過ぎね?俺の随筆

今回は 昔語りから始めましょう。私は大卒です。大学を卒業した24才の時から、脳卒中に見舞われる52才の間の28年間はサラリーマン(営業職)でした。ん?(  -_・)?計算が合わないぞ。なんで24才なんだ?大学を卒業するのは普通22才じゃないのか?などとお思いでしょうが、実は私は「1浪して入学した大学を1年生の終わりに、1年分の単位を習得した上で大学を中退」したのです。しかも再入学した大学では1年生からやり直しました。別に2年生からでも行けたんですけどね(流用可能単位が少な目だけど)。どうせならキリがよくなくてはならないと思ったのです。このことは、大学を転籍しようとした者にだけしかわからない感覚なのかもしれません。そういうわけで実質的に2浪と同い年なんです。私の頃は1浪くらいは珍しくありませんでした。2浪さえも普通の学部にたくさんいました(絵画関係なら4~5浪さえ)。そんなわけで24才なんです。余談ですが、私は第1外国語(英語)のクラス分けにて、現在の中日ドベゴンズ2軍監督の仁村徹君とは同級生でした。彼は当然野球部に所属していて、そこではアンダースローのピッチャーでした(バッターのイメージだけど)。2軍監督なら何とかしろよ、ドベゴンズを。

のっけから話しがおおいに逸れましたが、今日のテーマは「仕事するって何?人は何のために働くの?」です。会社というものには、「資本家及び経営者」と「雇われ人つまり労働者」の、2種類が存在するという構造があるのは学校で教わったけど、私が通った学校では、「仕事は何のためにするのか」なんて教えてくれませんでした(冷静に考えると教えてくれなくて当たり前だな、正解がないもの)。この世に生を受けて以来24年は、「仕事って何?」なんて思いもしませんでした。というか、疑問にも思いませんでした。ところが一転して、サラリーマンだった28年間は「仕事って何のため?」と考え続けました。身につまされる疑問でした。

そして、労働者側の立場に立って言うと(その立場俺にはあたりまえ)、ひねり出した答えは

「仕事は自己実現のためにする」

でした。自己実現とは何かというと、その答えは少々哲学的な答えですが「自分が自分であるためだけに働く」です。では「自己実現」って具体的には何?という難しい問いに、敢えてわかりやすくて平たい言葉で回答します。 自分の望みに少しでも近づいた生活をすることが自己実現です。望みと成就の2階立てです。 お金がつきまとう場合も、お金では買えない場合もあります。かなりの長文になってしまうかもしれませんが、どうぞ我慢してお付き合いください。

自己実現の事例をご紹介します。例えば、お金がつきまとう場合では「マイホームが欲しい」「高級外車が欲しい」「贅沢三昧な食べ物を毎日食べたい」「海外旅行に行きたい」などです。どれも金がかかることばかりですね。う~ん、やたら自分にも身に覚えがあります。「金が欲しい、金さえあったらなあ、でも貧乏だから諦めよ」と悔しいかな何度も思ったものでした。

「マイホームが欲しい」で考えてみましょう。「マイホームは今のところ俺の収入に鑑みてとても無理。仕方ない、賃貸マンションで今は我慢しとくか。でも今に見てろよ、いつかは必ず手に入れて見せる」と思った瞬間にそれは望みになって、年齢を重ねるなどして、それが実現できた時にそれは自己実現できたと呼べるのです。

「高級外車が欲しい」で考えてみましょう。「俺は今度の車の買い替えの時はベンツが欲しい。でも高い」諦めだけが人生だ、と言わんばかりですね(元ネタは「サヨナラだけが人生だ」井伏鱒二だったかな佐藤春夫だったかな)。でも、いつの日にか余裕が出来て、高級外車さえ買えるようになったら、それが自己実現です。

次に、金が絡まない場合の実例を挙げてみましょう。例えば「兄弟仲良く」という願いを立てたとしましょう。兄弟仲良く、売ってるわけじゃありません、お金じゃ買えませんね。仲が悪かった兄弟が「このままじゃいけない」などと考え直して、兄弟仲良くしなくてはならないと思った瞬間にそれは願いになり、お互いに暮らしに余裕が出来て、心にも余裕が出来て、心の底から仲良くできた時にそれは自己実現したと呼べるのです。

さらに、お金じゃ買えない例を挙げるとしたら、そんな人がいるのかいないのか知らないけど、例えば「世界が平和になりますように」と願った人がいるとしましょう(ジョン・レノンかよ)。世界平和、難しい問題ですよね。でも、世界中が平和になったかどうかはわからないけど、少なくとも

自分自身とその周りだけは幸せそうだ、と思った瞬間にそれは自己実現となるのです。そもそも「幸せとは何か?そして何がどれぐらい望みどおりになったら幸せと呼べるのか?」という問がどうしても付きまといます。お金がすべて、お金さえあれば他には何もいらない、と考える人も中にはいるでしょう。それを否定し切ることはできません。でも、「お金がすべて」では、あまりにも寂しすぎる人生だとは思いませんか?少なくとも私にはそう思えるのです。お金だけがすべてなんて私は信じたくはありません。高級外車でも同じです。「暮らしに余裕が出来て、心にも余裕が出来る」と言うくだりも、「暮らしに余裕」とは、お金が貯まった、とイコールかもしれません。うわべだけ仲良くしてる」というならそれはお金次第かもしれません。でも「それだけじゃない」と信じたいです。もうひとつ、どれぐらい望みどおりになったら幸せと呼べるのか、の問題ですが、どれぐらいというのは人それぞれだと思います。多幸感を感じるポイントが人それぞれだからです。世界平和なんてハードルが高過ぎるから「自分の周りの幸せ」だけを基準に考えればいいです。周りが幸せなら、自らも幸せなのに違いない、自らも世界の一部だから、自分の幸せが世界平和で、これが自己実現だ、という理屈です(少々強引かな?)。自分の周りの幸せを感じとれた時が自己実現です。こうして見ると、自己実現とは果てしなく遠いもののようでもあり、案外身近なものとも思えます。

厳しいことを言うようですが「仕事するのは自分のため」に限ります。「自分のため」だけに働いているのです。決して「あの人のため」などという動機では働くと言う動作は起こり得ません。

例えば、会社員なら「私は上司が喜ぶ顔が見たいがために働いてる?」

とんでもないです。それは勘違いです。

例えば、幼稚園の先生なら「私は、可愛らしい子供たちのために働いてる?」

とんでもないです。それは勘違いです。

例えば、老健の介護士なら「俺は、あちこち衰え始めて、気の毒なこの施設の老人のため働いてる?」

とんでもないです。それは勘違いです。

例えば、公務員や政治家なら「私は、国民あるいは市民のために働いてる?」

とんでもないです。それは思い違いです。

例えば「私は、愛する配偶者の幸せのために働いてる?」

とんでもないです。それは勘違いです。

全て「仕事は自分のためだけにする」です。誰かのためではありません。中には「配偶者のために働いている」と感じてる人もいるでしょう。でも「配偶者の幸せそうな横顔を見てるだけで幸せを感じる」というのは、仕事するよろこびやり甲斐を、これこそが愛だという単なる勘違いをしたに過ぎません。目標物があると効果測定がわかりやすいけど、あくまでも汗を流すのは自分なのです。 「可愛い自分の子供のため」もしくは「同居している両親のため、育ててくれて恩義に感じてるから」と言う人もいるでしょう。でも、それでは「自己実現」とはなりません。

仕事は自己実現のため、これさえ結論付け出来れば、おのずから「やる気」が湧いて来るのではないでしょうか?

 

今回もまた長文になりましたね。最後までお付き合いくださいましてどうもありがとうございました。結論を先に言って、それから事例を挙げるようにしたのですが、それっぽっちでは劇的な効果はなかったみたいです。今後も引き続き長文にならないように努力しますので、よろしくお付き合いください。来月は「愛って何だろう?」です。それではごきげんよう、さようなら