menu

長過ぎね?俺の随筆(その13)

2022年2月1日
長過ぎね?俺の随筆

皆さん、こんにちは。早速ですが、「長過ぎね?俺のブログ」のブログ書き始め1周年(🔰マーク卒業式?)を記念して、このブログのアーカイブ集を管理者樣にお願いして作ってもらいました。この本文の一番後ろにあります。過去の私のブログを読みそびれた方は、この機会に是非ともお読みください。作者的には「良い出来悪い出来」があるけれど、自画自賛になってしまいますが自分でもそれなりに上手く書けたかなと思うのは、第3回・第10回・第12回あたりです。レベルは高くないけど、自分なりにうまく書けたのではないかと思います(あくまでも自分なり)。今後もどうぞご贔屓に。私もがんばります。なお、お読みいただいた感想なども、このホームページの「ご案内アドレス」宛てにメールしていただけるとありがたいと思います。メールアドレスは、info@yumenoie.or.jpです。どうぞよろしくお願いします。なお、いただいたご意見は、今後ブログを書き進めるうえでの参考とさせていただくつもりです。それでは本題に戻りまして、今回のテーマは「ポジティブばかりじゃいられない」です。それでは早速書き進めたいと思います。

人間は誰しも、様々な感情に揺さぶられながら日々を過ごしてます。誰もがみんな同じだと思うのですが、理性に揺さぶられるならまだしも、感情なんかに気持ちを揺さぶられたくはありません(獣や虫でもあるまいに)。だからこそ、感じられることがあります。その答えは「感情の波穏やかな、平凡な毎日が幸せ」なのです。

人間というものは、ポジティブばかりじゃ生きられないと思います。毎日を過ごして行く途中には、落ち込む夜もあるでしょう。落ち込んだ一人ぼっちの夜には、ネガティブが身に染みます。そしてネガティブなりに考えます。「どうしてこんなに寂しいんだろう?どうしてこんなに悲しいんだろう?」ええ、今でも充分に疲れてます。溌剌と、そしてボジティブに生きるのはたぶんいい事です。だけど、それだけでは生きて行くことには、違う意味で疲れてしまうのではないかと思います。ポジティブな人は、楽しそうで嬉しそうです。私でも「自分もあのようにありたい」と憧れます。人というものは往々にして、笑ってる人を見ると、ついつられて笑ってしまうものなのです。それに加えて、気分も何故だか軽くなったような気がしてきます。笑うと何かの脳内ホルモンが分泌されるせいだと宣う(のたまう)向きも多いみたいです。そのように解説してるのをちょくちょく見かけます。でも、意味もなくハイテンションな人を見ると、なぜだか目を背けたくはなりませんか?正直に白状すると、私の場合、自動的発作的に「見たくない」とばかりに、目を閉じてしまいます。それと同じように、疲れてしゃがみこんでる人を見ると、ついつい自分も「あーあ、疲れた」なんて言って座り込みたくなります。 気分なんてものは、他人につられやすいんですね。私もそれを否定しません。そして、ネガティブもポジティブも伝染します。ネガティブには伝染して欲しくはないのですが、ポジティブな人を見ると、その気分が伝染して、何だか気持ちよくなったような気がするのです。でも私は、ネガティブもある程度必要だと思います。持ちすぎるのも問題なのですが、ネガティブには、ある意味いいところもあるのではないのでしょうか?ポジティブだけじゃ片寄った反省なき人になってしまうかもしれません。うしろ向きが悪いことだとはけっして思いません。私は、物事が持つ二面性を常に大切にしたいと思っています。

薔薇の花は美しい。だけど薔薇の茎にはトゲがある。あたかも「受粉するのに役立たないやつの接近は禁止、遠巻きに花でも見てろ」とでも言われてるようです。綺麗だけどあぶない。どっちがホントのことだろう。

紫陽花(あじさい)のドライフラワーは地面に花として咲いてた頃は確かに綺麗でした。ドライフラワーにされても、その頃を彷彿とさせます、思い出させてくれます。匂いもほんのりとします。でも、それと引き換えにドライフラワーは色褪せてます。地面に咲いてた頃がなつかしいです。みずみずしくて綺麗だったけど、渇ききった花を見掛けなくては思い出せなかった、どっちがホントのことでしょうか?紫陽花はドライフラワーにすると、花言葉が変わると言います。地面に咲いてる時の花言葉と、ドライフラワーになった時の花言葉、どのような花言葉になるのかは知らないけど、どっちを信じればいいのでしょう?

人間の赤ちゃんの成長は早いです。でも自分の毎日の平凡な日々が過ぎ去るのは長いと感じられます。都合いい物は早いけど平凡なものは遅い、どっちがホントのことでしょう?

ヒトの脳は、常に自動的にに正しい配分を決めています。あくまでも「自分にとって利潤が得やすい正しさ」ですが。しかし私は、常に自制的でありたいと思います。なぜなら「蓋を開けて見たら結局、思うほど自分は正しくなかった」というのを、嫌と言うほど経験して来たからです。ひとり勝手に突っ走って、散々「審判に勝利判定の旗を挙げてもらえない」という経験ばかり重ねて来ました。そりゃあ最初は自分を信じたいです。そして最後まで自分を信じたいです。泣き言もたくさん言いました。悔し紛れの咆哮もいっぱいしました。でも「信じては叶えられず、信じては届かず、信じては裏切られ」を繰り返すうちに、徐々に「俺は思ったより馬鹿なんだ、間違いを定常的に犯す存在なんだ」と思うようになりました。さすがに私も学習したんですね。「審判に裏切られ」って、一体何を裏切られたと言うのでしょうか。酷い(ひどい)被害者意識ですね。私の悪い癖です。しかし、悪目に想像しておくのがちょうどいいです。「それがちょうどいい」なんて率直に言って残念です、寂しいです。ポジティブが羨ましいです。ポジティブとネガティブが、ちょうどよい温度に掻き回される温度を探ってみたいと思います。

その昔、御釈迦様がこのように言われたそうです「何事も中庸がよろしい」中庸とは「いい頃加減の真ん中付近」のことです。うーん、釈迦のおっさん、なかなか言うなあ。的を得てるな。これを言いたいがために考え出したわけじゃないんだろうが、いろんなところで使える言葉じゃないか、と思います。何事もバランスが大切なのです。ネガティブとポジティブのバランスもうまく取れたらいいですね。

 

今回は案外短く済みました。普段からあんなに長いと、今回の短さが何故だか物足りなく感じる私なのです。ふぅー。次回は初の試み「時事問題、やがて中国が世界制覇?いや、インドが世界制覇?」の予定です。それではごきげんよう、さようなら。

 

 

★ブログ管理者より読者の皆様へ★
I.Y.さんへの応援メッセージ等ございましたら、施設の『お問い合わせフォーム』をご利用ください。

★アーカイブ「長過ぎね?俺の随筆」★
I.Y.さんの楽しい随筆をもう一度お読みになりたい方は、こちら↓↓↓をご利用ください。

第12回 「オンリーワン?聞いたことあるぞ」

第11回 「身障者は可能性を追求し続ける存在であるべき」

第10回 「中村八大破れたり」

第  9回 「語源。知ってる?」

第  8回 「かつて私が知りえた雑学」

第  7回 「正義って何?正義の味方って誰?」

第  6回 「〇〇できないのは案外辛い」

第  5回 「幸せって何?」

第  4回 「博愛」

第  3回 「愛って何?」

第  2回 「仕事するって何?人は何のために働くの?」

第  1回 「ここのような施設の入居者たちには、介護スタッフの人たちがどのように見えているのか」