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長過ぎね?俺の随筆(その11)

2021年12月13日
長過ぎね?俺の随筆

こんにちは。お久しぶりです、1ヶ月ぶりですね。ブログは1ヶ月おきと勝手に決めてるのですが、1ヶ月は長いものですね。すっかり寒くなってしまいました。元気にお過ごしくださいね。それでは早速今月もお話しに取り掛かりたいと思います。

我々が暮らす「夢の家」の「夢」とは何かというと、「たとえ直りそうにはない病気のせいで身障者になってしまった人でも『右手がダメでも左手があるさ、左手でもやれることはやろう、両手がダメでも両足があるさ、やれることはやろう』という夢を持とう」という意味だと教わりました。つまり「もう~はない」ではなく「まだ~がある」。その気持ち、前向きですね。悪い意味じゃなく良い意味で「愚直」ですね。言い換えると「すなお、かつ前向き」かな?でも、このような愚直さが大事なのです。照れてる場合じゃありません。

今回のテーマは「身障者は可能性を追究し続ける存在であるべき」です。メル友のYさんという人からのメール文章を眺めながら思い至ったテーマです。 私にはYさんというメル友がいます。この夢の家の入居者で、電動車椅子を足で器用に運転している人です(これっぽっちだけど、わかる人にはわかるかな?)、私より10才以上年上です。今にして思えば失礼千万だけど、見かけは「重度の知的障害」にしか思えませんでした(ごめんなさいね)。ある日のこと、そんなYさんからメール交換の申し出があって、アドレスを渡されました。文通がはじまりました。そして何回かのメール交換の中で3つわかったことがあります。まず1つは、この人の頭の中は、むしろこの私よりクリアだということ。2つ目は、この人は生まれつきの脳性小児まひで不通学だけど、おそらく抱いたであろうそのコンプレックスをバネにして一生懸命に独学して単独買い物や単独旅行をして人生を楽しんでいるらしいということ。その行為はひょっとしたら、我々身障者のめざすべき姿かも知れないということです。3つ目は、この人のメールには、時々「含蓄のある言葉」を含んでる、という事実です(本人はどこ吹く風の顔つき)。そういうわけで、今回のテーマはこの人の言葉からです「身障者は可能性を追求し続ける存在であるべき」です。前途に希望が持てたら嬉しいですよね。

我々身障者は常に可能性を追い続ける存在でありたいと思います。しかし、せっかく湧いたこの気持ちを、萎えさせる考え方を振り回す健常者が身近にまだまだ存在します。現在の私たち身障者の暮らしは、過去の名もない身障者たちの「暮らしを向上させたい」というたゆまぬ努力の上に成立してます。それと同じように、今の我々身障者の頑張りこそが将来の身障者の幸せに繋がるのです、今こそが頑張りどころです。身障者が可能性を追い求めることは無駄骨折りなのでしょうか?ただ「危ないからやめとけ」と言われるだけなのでしょうか?我々は確かに「体が不自由な人」です。そして「シモの世話」を受けながらここに暮らしています。その事実を否定などしないしできないし、否定する気もありません。でも、たとえ自分が死んでしまう時がすぐ近くまで来ようとも、死ぬ瞬間までは可能性を追い求めることだけは忘れたくはありません。「やれることはたとえ多少咳き込んでもやってみよう」の精神です。「気概の空回り」と笑われても構いません。

そして、私は我々身障者が生まれた意味を考えてみました。可能性を追究する前にまず、我々がどこから来てどこへ行くのか知っておく必要があると思ったのです。私みたいに人生の途中で身障者になってしまった人もいれば、お気の毒なことに生まれつき何処かに不具合を抱え込んでしまった人もいます。私が「人生の旅の途中でこうなってしまった人」だからと言って、生まれつき体の何処かに不具合を抱える人より私のほうが気の毒、などと申し上げるつもりはありません。その逆の「生まれつき不具合を抱えた人のほうが途中からこうなった人より気の毒」ということもありません。どちらが気の毒か、なんて、比べることは不可能です、過ちだと思います。

生物を観察した上での最大の謎は、それぞれのパーツ(器官)で「こうやって作動したらいいな」ということがあるけど、すでにそのように作動するようになっているということです。そのように進化するのは、いったい誰が号令を掛けてるのでしょうか?言わば「進化の謎」です。暑さ寒さに強い、足が速い、病気になりにくい、などです。これらが発生するのはたぶん偶然からだろうけど、それらがさも当たり前のように継続するのは何故だろうと思います。一方、不要なものは全ての生き物において徐々に退化して行くのですが、みんなで集まって相談したわけでもないのに、退化してもいいと誰が決めたのでしょうか?声でも聞こえたのかな?とあらぬ想像をしてしまいます。言わば「退化の謎」です。進化の謎のほうなら、優性遺伝や劣性遺伝で何となく(あくまでも何となく)理解できるのですが、退化の謎のほうはどうしても理解できません。生き物には「生物の記憶」としか言い様がない不思議な進化退化を遂げる場合があります。「そうなると楽だ」とか、「こうなっちゃいけないよ」の事例をただ我々は身をもって忠実に再現し続けているのです。最初から知ってたとでも言わんばかりに、まるで注意喚起してるみたいです。私達身障者も健常者も同様に、この「生物の記憶」が支配する世界から来たのかもしれません、「こうなっちゃいけないよ」の声だけが鳴り響く世界から。そして我々の可能性も手探りの中かもしれません。

もしそうならそれはそれで少しだけ満足で、少しだけ不満です。
満足でも不満でもないことの大分部はこういうことです。「俺達は生物。もちろんDNAも持っている。生物にとって最大の目的は『種の継続』ということももちろん承知している。私は年齢的に役目はもうおしまいなのもわかってる。 しかし、健常者のみんなのDNAの中に、知らないうちに今の私の状況が忍び込んでるに違いない。それでなくては『私にも与えられたこの余生』の説明がつかない。それが『生物の記憶の謎』ということだ」です。満足でも不満でもありません。私達身障者は「生物の謎」を他人に語り継いで貰うためだけに生まれ、そして生きてるのです。

少しだけ満足な部分とは、少なくともサンプルのひとつにはなれたことです。私達が生き続けてる理由は、少しでも種の継続に役立ちたい、だと思います。その「種の保存」という観点から「おまえの人生、全然無意味だ」と言われるより、サンプルであり続けることのほうが「生きてる理由がある」という考え方です。「生きてる理由」とするにはかなり弱過ぎるけど、何もないと言うよりまだマシです。たぶん死後の世界とは、意識なき真っ暗闇の世界です。死後の世界と言えば、血煮えたぎる地獄とか、お花咲き乱れて良い匂いのする天国のような世界を連想する人も多いと思いますが、私の世界観によると、そこは意識なき真っ暗闇の世界です。一人ぼっちではあるが一人ぼっちという意識もない「何もない世界」、私達はそこから来て、そこへ帰って行くのです。ちょっと寂しいですね、はかないですね、むなしいですね。

次に、不満の要素とは何かというと「なんで自分が?」という疑問です。誰のせいでもないのに、いくら考えてもしょうがないのに。この不満点(あまりにも自分勝手の不満)については、たとえ誰であっても一度は考えてみたことがあるのではないかと思います。「なんで俺だけ?」。しかし「それが運命だった」だけで片付ける、いわゆる「運命論」だけで終わらせたくはありません。仕方なかったなどと諦めてしまうためです。諦めたくないからこそ、可能性を追い求めたくなるのではありませんか?

私達は身障者として、この施設で安寧な日々を過ごさせてもらってます。安寧なんて物凄く幸せなことです。これも介護士さん達のお陰です。私はこのような態度・このような顔つき・このような行動ですけど、ホントに感謝しているんですよ、信じられないでしょうけど。介護士さん達の「少しでも利用者さん達が安心安全(ほら、言葉被りだ)に暮らせますように」という小さな願いが私達には見えるのです。私にも見えるのです。でも、この施設で安心安全にのうのうと暮らし続けるより、私はギリギリの線を追い求めたいと思います。それこそが「身障者の可能性の追求(追及ではない)」だと思うのです。やがていつかは私も年老い過ぎて(くたびれ果てて)、ギリギリの線を追い求め続けることができなくなってしまうことでしょう。でも、その日が来るまではファイティング・ポーズであり続けたいと思います。

フと気づけば、こりゃまた「どえらい」長文になりました。Yさんが与えてくれた文章のテーマは私にはむつかし過ぎるのかもしれません。自分でもまとめきれていないから、長文にならざるを得ないのです。ま、しょうがない。今日もこのブログの管理者様に感謝です。続けさせてくれる、感想を書き込むところがなくて炎上のしようがない。長文を書くことは(しかもガラケーで手入力)書いてる張本人もけっこう辛いんです。いつもいつもすみません。それではご機嫌よう、さようなら。