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長過ぎね?俺の随筆(その28)『時間って何?』

長過ぎね?俺の随筆

こんにちは。ご機嫌如何(いかが)ですか。私は、心のうちだけはご機嫌です。が、顏の表情だけはなぜか笑えません。どうして笑えないのかわかりません。硬直したままです。ま、そんな日もあるさ。心の中はご機嫌だからまあいいか?さあ、元気出して行こう!それでは今回も冗長(じょうちょう、無駄に長いこと)なブログを書いてみようと思います。今回のテーマは「時間って何?」です。

 

ある日の昼下がり、私はこの施設の2階のエレベーターホールで、1階に行くためのエレベーターに一緒に乗ってくれる職員さんを、ただぼんやりと待ってました。私は、電動車椅子の乗り手ですが「エレベーターの一人乗り禁止」なのです。手が届かなくてボタンが押せません。ボタンひとつ押せないほど手が動かせないやつが、他の入居者に紛れてあるいはひとりぼっちでエレベーターに乗って、何かあった時、誰が手助けするのか、ということです。何かって何だ?でもそれは大抵の場合言い逃れ、今までの人生経験がそう言ってます。そしてこれにはさすがにちょっと納得させられました。万が一ということもないとは限りません(起こさないはずだけど)。だから一緒に乗ってくれる介護士さんを延々と待つのです。関係者の方ならもうお気付きだと思うのですが、2階食堂での昼食から1階の居室への帰り道です。待ちながら、壁に掛かった壁掛け時計をただぼんやりと眺めてました。唯一「目に映るものの中で動くもの」だからです。

ひたすらに時計を見つめながら思います。あーあ、かれこれ50分ぐらい待ってるかな?(実は30分待つのはなかなか大変、ましてや50分なら)。○がばさん、俺よりも先に来たのに偉い。涼しい顏。あー退屈だ、早く誰か来てくれないかな?誰がいつ乗せてってくれるのかな?んんっ、あれえ?ちょっと待てよ?あの時計、さては真っ直ぐに壁に掛かってないな?慣れのせいだと思うけど、見づらいな?ちょっと傾いただけであんなに読み取りにくくなるのはどうしてなんだ?1時ちょうどなのに12時55分に見える・・・

 

待ち時間が長いからこんなことも考えます。

 

そしてさらにこんなことも考えます。もしも指針じゃなくて「文字盤が右へ右へと、針と逆回転する」ようにしたら、詳細な時刻はわかりにくくなるけど、ちょっとやそっとの傾きは気にならなくなるんじゃないか?しかも、長針と秒針は省けるんじゃないか?何分何秒という時刻の細分化がしにくくなる問題は、文字盤を数字ではなく絵にして(例えば干支の動物)、絵の付近に針が来たら○○時、ということで解決できるんじゃないか? つまり「細分化できないので時間の概念を今よりぼんやりさせろ」ということですね。「ぼんやりさせろ」ね、現在では考えにくいけど、一理あるかも知れないと思いました。もしもどうしても長針と秒針が欲しければ、分と秒はデジタル化すればいいのです。 そしてついでに「子供達への刷り込み教育」もやってほしい、いや、やりたいな。子供のころから「いつも時計は短針だけ」ということにしておけば、いつの間にかそれが刷り込まれるだろう。時間はかかるが国自体がそういう文化になるだろう・・・

さらに想像は膨らみます。短針は固定にできるんじゃないか?なまじ針が動いてしまうから「絶対時間」という考え方(ニュートン考案)が生まれてしまうのだ、と思いました。

 

絶対時間とは、3つの概念があります。ひとつは「時間は実感できる」。 我々は時間の流れを実感できます。『ろうそくが燃え尽きるのを見てた、あいつに待たされてイライラする』などです。この施設でも「今介護中。5分待ってね」という介護士さんの声でも実感できます。 何も不自然には思いません。

ふたつ目。「それは何者にも依存してない」、です。○○があるから時間がある、ではないのです。時間は独立してます。

3つ目は「時間はいつも一方通行かつ定速だ」です。いつも時間というものは『川が流れるみたいに針が進む方向への一方通行で、いつでもどこでも場所を選ばず例え宇宙の果てであっても同じ速度で流れる』という考え方です。宇宙の果てには私は行ったことがありませんが、我々とっては馴染み(なじみ)があって分かりやすいですね。

 

これをまとめますと、

ひとつ・時間を実感できる。

ふたつ・時間は何にも依存しない。

みっつ・時間はいつも定速、いつも一方通行。

 

一方『相対時間』はアインシュタインの提唱で、この絶対時間というものを否定するものだそうです。うーん、否定かあ。否定もありかな、肯定もありかな?つまるところ、よくわかんないや。コップに注いだお湯はいつか冷めて水になる。コップに注いだお湯の熱はどんどん下がり、お湯と水が混ざった瞬間に少しは温度上昇するけど徐々に冷めて行って、逆に熱くなることはない。コーヒーに入れたコーヒーフレッシュはいつか混ざる、しかも一度混ざったらもう二度と分離することはできない。これなどは「時間が何かに依存してる証拠」ではないかという考え方だそうです。うーん、なぞだ、現象はわかるけど、考え方がわかんない。

相対性理論は、言ってることが難しすぎて私には上手く理解できませんでした。ただ3つわかった現象は「重力の関係で、僅か(わずか)だけど、山の上では平地より時間が経つのが遅い」と「光速以上の速度で移動する物体の中では時間の流れが約7倍遅くなる、いや、流れないかも知れない」と「重力が大きいところでは時空が歪む」です。理由は私には聞かないでください。なぜそうなるのか私にはわかりません。文中に出てきた「時空」って何?・・・時空の意味もよくわかりません。時間&空間の意味かな?いいえ、違います、ですって。時空と時間は別物らしいです。「だそうです」としかいえません。ただほんの少しわかったことは、「時空とは、何億何兆何京コマで作られたパラパラ漫画のひとこまのようなもので、書き込んであるページの一番上が現在で、今のページはくっきりカラーで書かれ、過去のページは色褪せて、生まれる前の未体験のページは白黒で、未来のページはまだ鉛筆でデッサン中(つまり計画中ということ)。未来に行けば行くほどデッサンは薄いし、過去へ行けば行くほど絵も薄れてく(あたかも忘れ去れとでも言わんばかりに)。そして、時空は4次元の世界の4番目の軸」ということです。ただひたすら、わからんということだけがわかったような気がするのです。

「時空が止まる」 だから遠い星からUFOが飛来できるんだな(宇宙人が動物ならば老化しないので死なない、SF小説で時々タイムマシンのモデル)。「重力によって時空が歪む」だからブラックホールが手当たり次第ものを吸い込んで離さないんだな(手元がグッチャグチャで手放すタイミングが作れない)、と思いました。

 

私の曖昧な記憶だけですが、江戸時代の古い和時計のうちの数多くは、確か短針は常に上向きで、長針は最初からないものがあったと思います。動いてるやつは見たことがないから詳しいことはわかりませんが、確かにそうでした。「文字盤のみ作動」の特徴が出てます。その時代にはそういう時計があったと思います。

和時計は、その昔室町時代に、その頃伝えられた西洋時計(勿論定時法)を参考にしながら、その頃日本で採用されてた「不定時法」に対応するため、独自の発展を成し遂げたものと言われます。不定時法はご存じですか?昼を6等分して夜を6等分するものです。等分だから昼が長いと昼間の1時間も長くなります。昼が短いと昼間の1時間も短くなります。夏至冬至を挟んで、昼夜の長さは変わるけど「電気がないから、明るい時間は働き、陽が沈んだらみんな寝る」そんな暮らしを送ってた人々にとっては「不定時法」は名前に似ず案外合理的なものだったのかもしれません。明治になって、西洋と同じグレゴリオ暦(定時法)が採用されたと同時に和時計の技術は途絶えたと言われてます。

日常生活に於いて1時間が伸び縮みしてしまう不定時法の不便具合は言うまでもありませんが、定時法も理解しやすいけど「それも良し悪し(よしあし)」です。悪しのほうが大きいかな?私達は西洋的価値観を押し付けられて育ってしまったのです。小学校の教室の壁に掛かった大きな時計、貼り付けられた時間割。「そうか。時間って進んでいくものなんだ。時間って割るものなんだ」と思ってしまいます。こういうものを、毎日毎日眺めながら過ごしてると、そりゃ「時間というものは、過去から未来に一直線に流れ、どの場所に於いても定速」と考えることでしょう。あそこのクラスでは、1時間が短いらしいぞ、という噂がたったら「あー!何でおみゃあさんとらーだけかしゃん?どえりゃあこっすいでかんわー、先生にゆったろー(翻訳すると「あー、なぜあなた達だけなんだ、もの凄くずるいからいけないと思います、先生に告げ口したいと思います。・・・なぜか名古屋弁丸出し)」と大騒ぎになるに違いありません。時間の流れの解釈を、西洋的価値観に蹂躙(じゅうりん)される、明治維新後の日本の学校教育の最大のミスチョイスだったのかもしれません。

 

絶対時間を否定するなら、ついでというのも何なんですが(そう言いながら結構本気なんですが)、他の事も否定してみてはどうでしょう?

私は時間を実感することができるけど、時の流れは本当に一方通行なのでしょうか?本当に時間の矢なんていうものが過去から未来を睨んでるのでしょうか?

 

実は、さっき「時間とは何に依存するの?」と書きなぐって、そのまま「よくわからん」と途中で逃げ出して来てしまったのですが、あれから密かに「時間は何に依存しているのだろう?」と考え続けて来ました。今思い付きました。3つありますが、いずれも極めて観念的なことばかりです。時間も観念的なものですからね。

ひとつ、時間は「状態の変化」に依存してます。先程も挙げたろうそくの例ですが、火の灯してないろうそくの動画はまるで時間が止まってるように見えます。ろうそくが燃えて変形するから「時が流れた」と実感するのです。時間が止まってるように見える動画、これが案外、本当に止まってるのです。例えば、宇宙空間で恒星が輝いているとしましょう。恒星には確かに時間が流れてます。恒星の周囲も(目には見えないけど)温められているだろうから時間は流れてます。でも、ある程度離れた何もない真っ暗な宇宙空間では本当に何か流れてる?何もないんじゃないの?

ふたつ、時間は「因果」に依存してます。我々の周囲は因果に溢れてます。それに因る影響も絶大です。仏教用語では「因果応報」。ビッグバンがあって宇宙ができたから地球がある。地球があって生命が生まれたから人間がいる。両親が結婚したから俺がいる。・・もし地球がなかったとしたら、俺は存在できない。もし両親が存在しなかったとしたら、俺は存在できない。?これって依存じゃない?

みっつ、時間は「人間の意識」にも依存してます。実感できるから時間がある。あると思うからある(ないと思うとない)。時間は人間の観念なのです。あると便利だからあるのです。ご丁寧に時を計る機械さえ作り出して。

 

人間には五感というものがあります。視覚ならば目、聴覚ならば耳、嗅覚ならば鼻、味覚ならば舌、触覚ならば指先。では、時間は何の器官で感じるのでしょうか?確かに感じられるのにどこの臓器で感じるのでしょうか?それは脳なの?もしかしたら、時間とは人間の想像なのかもしれません。少なくとも実体はありませんが(観念的なものだから実体はない)、時間なんてそもそも初めから存在しないのかもしれません。時間が私たちを含んでるのではなく、私たち一人一人の中に時間は存在するのです。窓の下に歩いてる見知らぬ人、彼の頭の中には時間という概念はないかもしれません。

先程の「コーヒーに混じったコーヒーフレッシュは元には戻らない」ですが、これを逆再生した時は「これは逆再生だ」とわかります。では分子レベルではどうでしょう?コーヒー分子の中でミルク分子が思い思いに運動してる様子は、逆再生してもたぶん私にはわからないと思います。つまり私たちは、ふたつの情景を見比べて、そこに体験なんかも掛け合わせて「時が流れた」と思ってるだけなのです。物はだんだんカオス状態になると知っているのです。もしかすると時間は幻影なのかもしれません。時間は「ない」のかもしれません。

時間は時空(パラパラ漫画)として存在するのであって、時間は存在しないかもしれません。時間も空間もただ「人間の想い」なのです。時間とは幻想なのです。私が今体験してる現在も幻想なのかもしれません。過去も未来も全て現在と同時に存在して、しかも過去も未来も現在も全て幻想なのではないでしょうか?私たちはただ「ある」と信じて幻想を見せられてるだけではないのでしょうか?時計は無茶苦茶便利だけど、ただ実感を感じられる時間の長短を単純に計測しようというものではないでしょうか?そのほうが便利だから。

すなわち、時計とは「幻の身長の測定器」なのかもしれません。

 

ほとんど全ての人は「時間の流れとは『過去から現在に流れて来て、そして未来へと流れて行く』と思い込んでることでしょう。私は、それは勘違いだと思います。考え方次第でどのような姿にでもなることができると思います。逆転の考え方もあると思います。

 

「過去は変更できない」のではなく、「過去も未来次第で変えられる」のです。未来の自分を形作るのは、過去の自分の立ち居振舞いであって、しかも過去は変えられない。今現在の自分を苦しめてる原因も過去にある。だけど過去は変えられない、などと思ってるのではないでしょうか?・・・これを「過去原因説」と呼ぶそうです。

一方の「未来原因説」によると、過ぎ去った時さえも「あれは、大したことなかった」の一言で解決できます。過去の私は確かに頭がよくなくて、勉強嫌いだった。過去の私は、ベストを尽くすことをしない愚か者だったと、悔やんでるとしましょう。勉強ができなかった自分は確かにいて、そのせいで今の自分が格下の会社にしか就職できず、苦労を余儀なくされてるのです(上がいいとは限らないけど)。けれど、私は今、確実に成功者に近づいてるとしましょう。その時私はこう思うはずです。過去の私は馬鹿だった。だけどこのような状況になってみるとこう思う。「馬鹿だったのは事実だけど、それは大したことなかった」

未来が明るいから過去も明るかったのです。

成功者になる前はあんなに過去を悔やんでたのに、いざ本当に成功者になってみると「あれは大したことなかった。むしろよかった。あの時俺はそれなりによく頑張った」と思うかもしれません。意義がしっかり書き換えられてます。

未来の自分が、未来の自分を豊かにするために現在の自分をがんばらせる、和時計の時代の人は、そうやって自分を鼓舞し続けたのかもしれません。時計の文字盤が動くと、もしかしたら「時間は未来から過去へと流れてる」ように見えるかもしれません。

第20巻のブログのお話しに関連しますが、これは「発想の転換」とは言えないでしょうか?「パラダイムシフト」とは言えないでしょうか?これは「コペルニクスの原理の成立」とは言えないでしょうか?もしも文字盤のほうが動くと、時間の流れも「今とは逆」未来から現在、現在が決まってから過去へ。過去の事象は動かせないけど、過去の評価は今初めて決められる、と思いました。

 

 

なんか、私の言葉に言いくるめられてるみたいな気がしませんか?決してそんなつもりはないのですけど。わけのわからない事を書き連ねてしまったような気がするのです。敢えて要約しますけど

 

時間とは何か?の答えは、「時間とはパラパラ漫画のひとこま、時間なんてない、時間も時間が流れてるという体感も錯覚、時間とは生活するために便利な概念だと人間が編み出したもの、時計はそのついでにできた」と言うことができると思います。だから、自分が自分であるために、それだけを確認するために時間は存在すると思うのです。

 

いやあ、かつてないほどの長文になりました。最後までお付き合いくださいましてどうもありがとうございました。長文ということは、実は私がよくわかってない、それを証明したような気がします。これに懲りずに、今後もお付き合いよろしくお願いいたします。次回のテーマは「運転免許返納の難しさ」の予定です。それではご機嫌よう、さようなら。