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長過ぎね?俺の随筆(その4)

2021年5月31日
長過ぎね?俺の随筆

こんにちは。お元気でしょうか?私はちょっと変です。だけど体力的には元気です。ま、そんなことどうでもいっかぁ・・・。それでは、早速随筆に取り掛かりたいと思います。今回の随筆は、前回の続編です。2回1組の2回目です。前回のテーマは「愛って何?」で、その結論は「愛とは性欲だ」でした。まるで「幸せとは金だ」と言ってるみたいな冷たい回答でしたね。「そうなのか、性欲かぁ。言われてみればそのとおりじゃないか」と納得して頂くことができたでしょうか?逆に、「それでは腑に落ちない」という人もたくさんいらっしゃったと思いますが、そんな人は「これもひとつの見解なんだねぇ」と鷹揚(おうよう)に構えてくださればありがたいと思います。鷹揚とは「鷹が飛ぶようにゆったりと」というイメージです。前回も触れましたが、私は「愛とは2種類ある」と思います。ひとつは「恋愛」であり、もう一つは「博愛」だと思います。前回は「恋愛」のことを愛と呼ばせていただきましたが、明治中期までの日本では、愛といえば「親愛」の意味だと教わりました。ちなみに中国では愛といえば「性愛」のことだそうです(またその方向か、頭にお花でも咲いたんじゃないのか?、俺)。中国人から聞きました。我愛イ尓(うぉあいにー、つまりアイラブユー)という言葉は確かに存在するけど、そういった性的なニュアンスを含むので、女性には言わないほうが無難、と教わりました。

読者のかたには、「恋愛の正体の話しは、先月のこのブログでもうおなか一杯になるまで聞かせてもらったけど、残る一方の『博愛』の正体って一体なに?」という疑問が残ってると思います。「おまえは博愛の比率は少ないと言うけど、どうしても気になるじゃないか?」という声がたくさん聞こえて来ましたので、今回のテーマは「恋愛の正体が性欲だったら、博愛っていったい何?優しさって何?」です。

 

私がまだ若い頃は「優しくなければ生きて行けない、優しくなければ男じゃない」というテレビコマーシャルが流行していて、世の中の風潮もそうだったと思います。そういう風潮を感じる度に私は思ったものでした。「優しいって何?優しい男って誰? 優しくなければ存在価値すらないの? 男というものは優しくないとモテないの?(一丁前にモテたいと思ってたんだな)」と思いました。このことは、無頼漢を一人勝手に名乗る私にとっては、ほとんど脅迫のようなものでした。私は、少なくとも自分だけは「優しさ」とは無縁だと思ってました。今でもそう思います(何しろ無頼漢ですもの)。

 

博愛とは、優しさだと思います。優しさとは、博愛だと思います。博愛とか優しさとかは「他人のことをただ思う心」です。重ねて言います、他人のことを思う、です。「俺が俺が」ではありません。そしてそれは「この人の仲間になりたい(なってもらいたい)」という本能です。人間には「群れたがる」という本能があるのだ、と思います。この本能が発動した時だけ、人は人に優しくなれるのです。そして、恐らくそれは、「群れたがる本能」だけじゃなく「仲間を増やしたい」という領域拡張の欲求も伴っています。一般的に、男性は、いざとなると単独行動覚悟でさっさと巣を出ていきます。狩猟に行ってしまいます。戻って来るつもりはあるのですが、冷めた顔をして出かけて行きます。そのくせ、一丁前に「仲間を増やしたい」という気持ちだけは持ち続けているのです。これも「領域拡張」の本能が為せる技なんですかねぇ。それとも、みんなで狩猟をするほうが効率がいいと思ってる、ということなんですかねぇ。一方女性は自分の巣を守ろうとする人が比較的多いと思います。だから女性には料理を作って人に食べさせることが好き、という人が多いのだと思います。決して女性蔑視じゃありません。男性にも保守的な考えの人はいます。 言い過ぎを恐れずに言いきってしまえば、巣を作るのが男性で、巣を守るのが女性です(バツイチの私には言える資格がないな)。 本能だから、自分自身も知らず知らずのうちに、保守的な行動をしてる自分に気付きます。ただ、これだけは言えるでしょう、介護の仕事を選んだ人は、潜在的に博愛の心を持っていて、しかもその割合が普通より比較的ちょっとだけおおめな人だと思います、自分では気がついてないのですが。ちょっとだけが結果的(就職先)に大きな差となって現れているのです。そうでなければ「介護士になろう」などと思い付くはずがありません。現に私もそうです。博愛の本能が足りないため、介護士になろうなどとはかけらほどにも思えませんでした、いや、思いつきませんでした。そういう「介護士になろうとは考えられない」人は案外多いと思います。でも「潜在的」ですから、誰にもその様子を知ることが出来ません。本人に、「私は博愛の心を持ってる」という自覚はないはずです。仲間を欲しがる本能については、当たり前のことですが、一番身近な我々身障者が(老健であれば老人が)、仲間と呼んでもいいほどの頑強な体を持ってるはずはありません。仲間候補が仲間には相応しくない、だから理屈が屈折してしまって、わかりにくくなってしまってると思います。ここで、気をつけなければならないことがいくつかあります。1つは「私がやってあげる」の気持ちです。これも本能です。その人はおそらくこう考えます「介護のプロである私がやってあげるので、ありがたく頂戴しろ」という態度です。これも本能だから見えません。厄介ですね。やってあげるという誤った考え方は、往々にしてロクな結果に繋がりません。このような考え方によって、人間というものは、こんなに本能に左右されてる、とわかります。私は健常者の頃は「自分の全ての行動は自分自身で決めている、だからこそ時に思い悩むんだ」と確信していましたが、医療事故にあって以来、脳ミソの構造が変わってしまったらしく、こんな実感があります。「人間の行動の大分部は、感情と本能に左右されている。自分が考えて自分の理性で決めてる行動はほんの1%にも満たない。感情と本能が俺に行動を提案して、理性が決めてるだけだ。部屋の中で飛び回るハエはうるさいものだが、俺自身と部屋を飛び回るハエのどこが違うのだろうか?ほとんど同じじゃないか。」と。人間も一種の生き物に過ぎなかった、という実感です。

2つ目は、 「私は人助け、もしくはボランティアの精神に満ち溢れているのではないか?そしてそこで奉仕の精神ということを学んだ」と思った人がきっといる、ということです。私個人の考え方ですが、それは思い違いだと思います。「奉仕の精神」は理性によってもたらされるものであって、動力源となり得る「本能に突き動かされてるもの」ではありません。ボランティアの精神も理性ですが、奉仕の精神も理性です。自分の理性が「奉仕と言う物があるらしい」と教えてくれているのです。「奉仕の精神」うーん、持ってる人が羨ましい、立派な心がけです。貴重な心がけです。でも、その方向に頭を向けたのは「自分でも知らないうちにそっちを向いてた」のであって、決してあなたの理性がそのように向けさせたわけではありません。本能が向けさせたのです、知らず知らずのうちに。ボランティアの精神と思ってた「この人を助けてあげたい」という気持ちは実は、仲間になりたいという本能だった、と考えてみませんか? 自分が抱くイメージより、理性ではなく、感情と本能に突き動かされてる割合が遥かに多いとわかると思います。理性は人間だけに見られる特性なのですが、理性はアクセルにはなり得ません。ブレーキとして作用するのみです。

時々耳にするのですが、介護士による施設の利用者への虐待というのは、なぜ時々起きるのか、優しさが足りないのか?というと、私は全く真逆の見方です。そういう人は、博愛に対する気持ちが強すぎて「さあ、こっちをみてよ。私は立派な博愛を持ってるよ。どうして気がついてくれないんだ」という思いがあろうことか暴走して、今、誰と対峙しているのかわからなくなってしまっているのです。丁度目の前にいる「自分より弱い人」を、自分のアピールのためだけに利用しただけです。見境なく、自分が何をしてるのかわからなくなってしまってます。思いだけが強すぎて、正常な神経じゃありませんね。

ただ1つ、どうしてもわからないのが、介護してもらっていても、つっけんどんと言うか冷ややかと言うか、関わりたくないと露骨に思われてると言うか、その割にやかましく嫌味や皮肉を連発する人が存在するという事実です。この心掛けがどうしてもわかりません。博愛の心はその人から確かに感じ取れるのに、その人が持つ理性が、博愛を「気持ちいい」とはしてないようです。これが私には理解できません。つべこべ言われてへこむだけです。あっ、つべこべは言い過ぎか。曲がりなりにも「俺のためを思って」言ってくれてるんだからな。曲がりなりのところが曲がりすぎなんだけど。ま、どうしてもわからない時は、(とっておきの逃げかたの)「人間の多様性」のせいだ、としておきましょう。そんな人にもたまには出くわすこともあるでしょう。責めたりはしません、なぜなんだとも言いません。

 

今回もまた見事に長文になってしまいました。もう諦めたほうが良さそですね、俺が書こうとするブログは長いもんだ、と。最後までお付き合いくださいましてありがとうございました。次回のテーマは「幸せって何?」の予定です。それではごきげんよう、さようなら。