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長過ぎね?俺の随筆(その29)『運転免許返納の難しさ』

長過ぎね?俺の随筆

こんにちは。ご機嫌如何ですか?待望の春たけなわです。今はもう「ほぼなつ」です(ほぼカニという食い物を最近知った)。まだ梅雨入り前なのにさ。春は駆け足で過ぎ去って行きます(既に過ぎ去った?)。具合のよろしいものはいつも逃げ足も速いです。人生いつもそんなもん。ぐだぐだ言ってないで、それでは今回もブログを書いて行こうと思います。今回のテーマは「運転免許返納の難しさ」です。

 

人一人(ひとひとり)が生きて行くためには、様々な心配や困難があるだろうと思います。

心配事は何となくわかるけど「様々な困難」?何のこと?それは、よく言えば「感情溢れる生活」悪く言えば「悩み事だけに追い回される日々の暮らし」の事です。

 

判断を迫られて悩むこと、2択の選択に迷うこと、力加減が結果的にちょうど良くはなかったこと、これらの「正解がないこと」所謂(いわゆる)困難です。正解がないから、ことが済んでから自分と他人から代る代る責められます。(攻められる、かな?)

言い方次第です。あるいは捉え方次第とも言えます。感情溢れる生活と言ったって、感情が乏しい生活なんて「この人うつ病なのかしら」と疑がわれてしまいます。悩み事だけに追い回される日々と言ったって、悩み事すら皆無だったりしたら「なんて能天気なやつ(脳天気は誤り)」と言われるかもしれません。反対に悩み事だらけなら「こんな人生くそ食らえ、もうやだ」と、自暴自棄になってしまうかもしれません。能天気という言葉は否定的なニュアンスを含みます(つまりバカにしてる)。「楽天的(こっちは肯定的)」とは言ってくれません。考えるだけ無駄、だけど考えないわけにはいかない。

 

例えはどんなものがあるかというと

 

・離れて暮らす年老いた両親の行く末

・もしも自分が死んでしまった後のパートナーの収入源の心配(俺には無縁、あはは・はぁ・・・ガックシ)

・子供の健やかな成長の懸念

・相続を巡る兄弟間の血生臭い争い

・法律も絡む財産分与と相続とお墓の継続問題

・近所付き合いなどの人間関係の難しさ

・友達同僚上司同僚先輩後輩との距離感

・商売人なら商売の継承

 

これら、言わば「自分の周囲の人」との関わり方の問題です。周囲に人がいてこそ生きて行けるとありがたいと実感する瞬間に、ありがたく思うと同時に様々な問題が起こります。人というものは、生まれ来る時と死に行く時は必ず一人だけど、生きてる最中は一人ぼっちじゃ生きられないのです。人と関わりを持つことは救われるけどちょっと煩わしいな、なんて思う瞬間です。

 

ここまで、コミュニティー的あるいは公的な人間関係について書き連ねて来ましたが、次のような個人的な問題(というか決断を迫られる場面)というものもあります。

 

・うっすら顔を知ってる程度の隣人と大通の端と端ですれ違った時にするべき表情

・決断を迫られた時の決定の良し悪し(よしあし)

・勤務先は本当に今のままでいいのか

・遊びに行く時の行き先はどこにするのか

・ホテル旅館に連泊する時の荷物の量

・今日着る服

・外食先で今日の晩飯何にする、トンカツ定食それとも焼肉定食

・米を米屋に買いに行ってブラント米を買うのかお奨め品を買うのかの選択

 

所謂(いわゆる) 個人的な問題の数々です。

 

どれも難しいですね。一概には答えられないと思います。何と答えようが正解で、何と答えようが不正解のようです。

 

だけど今まで書き連ねて来たことは、以下の文章の前置きに過ぎなかったのでした。生きて行く上で、例えいかに困難な問題があろうとも、この世で最も難しい選択はこう言うことではありません。「トシを取ったら、運転免許証を返納するかしないか」だと私は思います。

 

これさえあれば生活に便利、これがなければ毎日が不便、タクシーは高くて日常使いできそうもないし、公共交通機関のバス電車は昔の「本数が多かった時代」をなまじ見て来たから、現状を不便に感じてしょうがない。1時間に1本では、スーパーに行くのも病院に行くのも、知り合いに会いに行くのも難儀の極み。もしそこが田舎なら、1時間に1本どころか、1日2本、なくなってる場合さえあると思います。最悪なのがこのままでは引きこもりになるだけということ。二人暮らしでパートナーの顏だけ見て暮らすのも嫌だ。顏見知りに会いに行くこともできないし、喫茶店にモーニングを食べに行くのもできないし、ちょっとした買い物にも行けない。敬老の日?わかってるさ。お祝いして貰ったな。でも、「トシ取ったら」と言っても、トシっていくつから?気持ちの問題だ。俺はまだまだ若い、年寄り扱いするな。派手な髪型は似合わないなんて、誰がそんなこと決めたんだ、免許返納なんてしたくない。

その上、一旦返納したら、再取得するためには再試験もしくは自動車学校再入学、できっこない。もう戻れないなんてごめんだ。ゆっくり走れば何の問題もない。

 

なんて。

 

私は、この体になって、医療事故をやらかしてくれた某病院から某病院に転院して、そこも半年で強制退院させられて(政府の方針らしい)、多治見の自宅に戻った時に、元奥さんの手で運転免許は強制返納させられました。今にして思えば、あれでよかったのでしょう。この病気になって以来すっかり性格が変わってしまった私は、人の顏を見る度に「身障者用自動車を買ってくれ。それくらい俺の体は動く(当初は車椅子を手で漕げた)」「今年の誕生日迄には免許書き換えだ。もうすぐだ。俺に代わって手続きしてくれ」と、要求三昧の日々だったみたいです。

この頃私は、勤務先を強制退職(つまりクビ)させられて、自分なりにショックだったみたいです。これは、「元奥さん」と「私の年下の上司」が直接会って話し合った結果だそうです(実は、上司となった彼の大卒後の入社直後の半年にも及ぶ新人出向研修先が、偶然元奥さんの独身時代の勤務先。二人ははるか以前から顏見知り)。今となっては「あの時の二人の判断は正しかったんだな」と思うけど、この時はそうではありませんでした。「俺は、車の運転ぐらいできる。電話口では話せないけど、聞くことはできる。話せないならメールがあるじゃないか?俺は仕事を続けられるはず」このように考えてました。大真面目でした。

 

「トシ取った」問題はこれと似てると思います。大真面目にそして本気です。これは「真冬には布団の中から出たくない」に似てると思います。

 

そもそも、ちょっとした買い物?月に一度のことでしょう?それこそタクシーでいいじゃない?友達に会いに行けない?行ったことあるの?モーニングにも行けない?己の運転を心配されるより、うすっぺらいトーストを食べることのほうが大事?パートナーと二人っきりが嫌だ?嫌なら別れれば?

 

何をほざいても無駄です。「わっわっわしゃ、返さない」これだけで終わります。

 

でもそれで本当にいいのでしょうか?昨今では社会問題化さえしています。悲しい事故が連発してしまったためです。残念ながら、事故が世の中を突き動かしたんですね。

だけど、みんなが騒いでるから、というわけでもありませんが、これはこの返戻制度が立ち上がった時から、専門家の口から予見されていたものでした。普段から私は「専門家の話しは斜に構えて聞く」というスタンスですが、最初にこれを聞いた時には「全くそのとおりだ、同意せざるを得ない。やな予感がする」と思いました。その頃テレビで見た国会中継ではこういう問題が議論されてました「75才以上の人をこれからは後期高齢者と呼ぶことにしたい」これに対してとある国会議員が「後期?前期があって後期がある。後期が済んだらさっさと死にやがれ。ということなのか?」と、お役人様に向かって吠えていました。私は「もっともだ」と思いました。しかし、上手い代替案も思い浮かびませんでした。未だにそのままです。この時質問した議員の要求は「後期高齢者という言い方はよろしくないから、もっと他の言い方に変更しろ」というものでした。これは無茶振りです。免許返納問題と似てると思います。言ってることは正しいけれど、「後期高齢者の言いかたの代わりだけ考えたまえ」だけでは済ませられないと思います。況んや(いわんや)免許返納なら。

 

年齢上限を決めて「幾つ以降は一律免許取り上げ」しか解決策はないのでしょうか?

 

誰しもが運転免許返納なんてしたくはありません。だけど一定のルールには従わなくてはならない時もたまにはあるのです。「いやだけどしぶしぶ従う」それが生活感というものなのです。自分だけ特別なんてあり得ません。

 

今回もまた長かったですね。最後までありがとうございました。次回のテーマは「鏡が反転する理由」の予定です。それではご機嫌よう、さようなら。