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長過ぎね?俺の随筆(その22)『芸術性の高い演奏って何?そもそも芸術って何?』

長過ぎね?俺の随筆

こんにちは。季節はすっかり秋深しですね。
秋といえば、むしゃむしゃ食べ過ぎでデブ直行の「食欲の秋」。
禁断の二度寝やむ無しキモチイイーの「睡眠の秋」。
ぐうたらしたし放題の「自堕落の秋」。
体がついていかんから、小学校の運動会で転んだ、の「体育の秋」。
ソロリソロリ体重計の「ダイエットの秋」。
いろいろありますが、私にはくしゃみ続く、花粉症の秋です。私は世にも珍しい菊の花粉症です。春はガーベラ、夏はヒマワリ、秋は菊、冬は電照菊つまり年がら年中鼻詰まり(つまり掛かりのつもり)。秋には憂鬱を感じます。でもかっこよく言えば今こそはの思い、の「芸術の秋」かもしれません。
そんなわけで、今回のテーマは「芸術性の高い演奏って何?そもそも芸術って何?」です。

 

かつて健常者だった頃私は、サラリーマン兼クラシックギターの先生(土日限定)でした。クラシックギターだけでは全く食って行けませんでした(金を払うから教えて、という人がほぼ存在しない)。サラリーマンはともかくとして、クラシックギターとは、柄にもなく芸術的表現に使われる楽器の先生です(鏡でも見れば?と言われそう)。 25才の時、エレキギターからクラシックギターに転向(かなり無理筋だ)してから一生懸命ギターを練習して、先生と呼ばれるまでに23年を費やしました。ところが、1日中弾きまくってたギターを現在の私は弾くことができません。その代わりというわけではありませんが、私の居室にあるパソコンで、時々「年令にそぐわない今時の日本のポピュラーミュージック」を楽しんでます。けれど、ホントはクラシックギターの曲こそが聞きたいのです。クラシックギターの曲は曲の構造が特殊です。作曲手法が他の音楽とはちょっと違うから「ギター曲の専門作曲家」というものが存在します。フランシスコ・タレルガでしょう?アンドリュー・ヨークでしょう?イサーク・アルベニス、ヴィラ・ボロス、ホアキン・ロドリーゴ、イグニシオ・アグアド、フェルディナンド・カルリ、マッテオ・カルカッシ、フェルナンド・ソル、ひとりぐらい名前を聞いたことはありませんか?・・・うーん、ないですか?尋ねておいてこんなことを言うのも何なんですが、たぶん誰も一人もわからないでしょう。ええ、そんなもんです。これらの作曲家の作品、私はみんな大好きです。各々(それぞれ)に良いもんですよ。

だけど、聞くと悔しいから聞きません。一見すると何の関係も無さそうな「今時の洋楽」も嫌いではありませんが、昔弾いてたエレキギターを思い出させて悔しいから聞きません。遠ざけてます。その他の時々聞く音楽として、沖縄の民謡、クラシック曲の交響曲などのオーケストラ(管弦楽)、ピアノの曲、フルートの曲、吹奏楽(オーケストラの弦楽器抜きバージョン)の曲、お琴や尺八による邦楽、雅楽と、幅広く聞くようにしてます。(なぜか演歌や懐メロは全く聞かない、何歳かわかってるの?俺)

 

芸術性の高そうな音楽に触れる度にこう思います。「芸術性が高い演奏って何?そもそも芸術って何?みんなが口にするけど、一体芸術って何さ?」若い頃から思い悩んでました。「芸術とは高尚なものだ」というだけで済まそうと考えていました。でも、全然見当違いでした。高尚といえば高尚だけど、高尚じゃないといえば高尚じゃありません。観点が違いました。わかっているようでわかっていませんでした。ほんの少し真剣に考えればわかるような気がしたのです。だけど、全然わかりません。このトシになるまで見つけられませんでした、真面目に考えようとしませんでした。

芸術って何?芸術性の高い演奏演技って何?

 

早速ですが結論から申し上げます(裁判の死刑判決みたいだなぁ、死刑の時だけ判決を先に言う)。私なりの答を申し上げますが、芸術とは「世界観を感じさせてくれるオーラ」だと思います。後からいっぱい説明しますね。そして、芸術性の高い演奏とは 「演者のオーラに溢れた演奏」 のことだと思います。これを言い換えると 「日常的でない演奏者の内なる力、佇まいや雰囲気に包まれた楽器の演奏」です。金を払ってでさえ見たくなる、時間を割いて(さいて)でさえ聞きたくなる、演者の雰囲気に包まれた空間に身を置く(演奏の内なる力に身を委ねる)ことだと思います。演奏者たる者、常に雰囲気を出したいそして感じてほしい、と思い続けてるのではないかと思います。

 

芸術に境界線はありません。作者が「これは芸術だ」と言うだけで、その物体その音楽その概念は芸術です(ちょっと強引?実はふかーい意味がある)。でも、そればかりを主張しすぎると、わけのわからないオブジェを「これこそが芸術だ」とやってしまいます。前衛芸術を名乗る人に多いというイメージです。これを「一人よがり」と呼ぶのです。結構嫌がられますよね。一方、それに触れる人(観客)がそれらの物体を芸術と思うかどうかはまた別の話しです。その物体に触れたとしても芸術だとは思えなかったり、転じて、まさにまごうことなき芸術に心を揺さぶらされたことに気が付きます。知らないうちに自動的に頭の中で判定採点します。それこそが「評価」です。だから評価なんてするのは簡単です。あなたが「これはやられた。今、私はオーラに包まれた」と思ったかどうかを表明するだけです。音楽において「これこそが芸術だ」と間違いやすいものに、「曲調にくせのある作曲」をやって見せる人の事例が挙げられます。この「くせ」があると、本当に芸術になってる場合もあるし、偽芸術である場合もあるのです。まぐれ芸術は比較的洋楽をやってる人に多いのですが、わかりやすく日本のポピュラーミュージックの例でご紹介します。昔はそうでもなかったけど、今では日本ではシンガーソングライターが重宝されて、シンガーとソングライター(作詞家と作曲家)の分業が欧米ほど進んでない(どっちがいいかは別として)ので、その曲の作曲家が誰とわかりやすいのです。だから誰の作品かと特定しやすいのです。戦前からいましたが、私の世代なら吉田拓郎さん、たくろう節という言葉を聞いたことはありませんか。メロディラインが独特です。その他に、浜田省吾さん、山下達郎さん、大滝詠一さん、小掠佳さん、荒井由実さん、中島みゆきさん、甲斐よしひろさん、井上陽水さん(はずそうと思ったけどやはり外せません)。旋律にくせがあります。ちょっと前の世代ならミスチルの桜井和寿さん、バービーボーイズのいまみちもとたかさん、サザンの桑田佳祐さん、ユニコーンの奥田民生さん、オフコースの小田和正さん、ブルーハーツの真島昌利さん、ジッタリンジンの破矢ジンタ(はしじんた)さん、電気グルーヴの石野卓球さん(ピエール瀧は今何処?)、宇多田ひかるさん(まだ現役か)、玉置浩二さん、槇原敬之さん(変なおっさんになっちゃったけど、奥さんが音楽関係者でない男、ええ、書き間違いじゃないですよ、奥さんが男)、 近頃Adoさんが取り上げて再ブレーク中の椎名林檎さん(本名の椎名裕美子を伏せてる)、 ZARD専属作曲家の織田哲郎さん、まだ現役だけどゆずの北川悠仁さん などです。今時なら、back numberの清水依与吏さん、King Gnuの常田大希さん(ジャズとクラシックの融合をロックという手法で演じてるのに驚いた)、Vaundyさん(バンド名じゃなく個人名、顔はわかるが本名は知らない)、米津玄師さん(本名みたいです、これもアバンギャルドとポピュラーの融合ぶりに驚いた)、あいみょんさん(なぜか本名の森井愛美とは言わない)や、ヨルシカのn-buna(ナブナと読む・本名は知らない、間の取り方が秀逸)さんや、 YOASOBIのayaseさん(ソロのボカロP時代含む、日本語をメロディにのせるのが巧い、本名の苗字はたぶん綾瀬、ちなみに綾瀬といえば「綾瀬はるか」だけど、これ芸名、本名は蓼原綾たではらあや)、現役で今気になってる人を挙げると、にしなさん(芸術特有のほの暗さがある)、和ぬかさん(これもアバンギャルド?)、打首獄門同好会さん(3人組バンド、ドラムとベースの女2人にヘビメタ好きの男1人が挟まれたらこんな曲を書くのか、こんな歌いかたをするのか) 、Amazarashiさん(さすが太宰治ファン、理屈っぽい詞曲がいい、好きじゃないけど大化けするかも) ですか。誰が聞いても「ああ、この曲はあの人の作曲だな」と判るものです。芸術であるためにできることは、曲作りにおいては曲がりなりにも偶然だけど全てやってます(何を?詳細は後述)。でも大抵の場合それらはギリギリ芸術ではありません。なぜならば芸術になるのを狙ってやったわけではないからです。確かに「芸術だと言うだけでそれは芸術」ですが、またこのような側面もあります、「芸術じゃないと思ったらそれは芸術じゃない」のです。芸術にしたいと思ってやれた時だけそれは芸術なのです。したいと願わなくては芸術候補にはなれません。しかもできて始めてそれは芸術です。「芸術じゃない」についてもう少し説明しますね。作った本人がポピュラーミュージックと(無意識下にでも)思ったら、それはポピュラーミュージックです。あまりに大衆的です。まぐれもたまにあるけど、大衆音楽じゃ芸術ではありません。まぐれ芸術としてはビートルズなんかがその代表格ですね。彼等は「20世紀を代表する音楽家、その芸術作品は後世に残るだろう」と言われてますよね(後世があれば)。彼等も日常を歌ってます。作った時はポピュラーのつもりだったのでしょう。でも「まぐれ芸術」なのです。日常は芸術になり得ますが(クラシック音楽には日常を題材にしたものも多い、詩や小説もそう)、大衆的ではあってはなりません。大衆音楽は芸術ではありません。日常を切り取って見せてもいいけど、日常で芸術を語ってはならないのです。

ギリで芸術じゃない、ギリってどういうものなの?の答えは、私が思うに、その作品その演技演奏が芸術であるためには、ひとつの前提と4つの条件があると思います(これが冒頭で言った「詳細は後述」でもあってギリの説明でもある)。

まず前提ですが、「これこそが芸術」と願ってること。日常は芸術になり得ますが、作ったものを(無意識にでも)ポピュラーと思ったらそれは芸術ではありません。「俺が作った曲は、愛だの出会いだの別れだの大衆の気持ちを歌にしたものなので、これはポピュラーミュージック」と思ってるに違いありません。でも、思った瞬間にそれは芸術ではありません。

次に、条件の4つですが

1・世界観を持ってる

2・大衆的じゃない(日常を主題にしない)

3・誇張してる(たくろう節など)

4・崇高さを目指してる

です。ひとつずつ説明すると、

まず1、世界観。それはその人のワールドです。ものの見方です。どう見えているか、です。小説の大半はこれに費やされます。

次に2・大衆的じゃない。大衆迎合は芸術なんかじゃありません。大衆迎合は日常的です。日常は誰にもあります。誰にでもあるなら、作者が私である必要がありません。日常は芸術の題材にはなり得ますが、芸術の主題にはなってはならないのです。私が分からなかった点はここです。勘違いしてました。「高尚だ」なんて、日常が主題になり得ると信じ込んでる証拠です。

次に3・誇張してる。絵画なら浮世絵、デフォルメしてます、浮世絵は海外で評価が高いです。音楽ならクレシェンド(だんだん強く)や、デ・クレシェンド(だんだん弱く)。楽譜にも指定しますし、演奏者も自分なりに付けます。音楽大学で「楽譜に忠実であれ」とたびたび言われるのは、これの横行を予防するためです。それでも出てくるものだけが、本物の誇張なのです。

最後に4・崇高さを目指す。のほほんとした芸術なんてありません。常に緊張感があります。砕けた芸術なんてありません。お笑いはどこにもありません。明石家さんまさんやダウンタウンは確かに面白いけど芸術なんかではありません。

芸術が持つオーラは、日常を崇高にまで高めてくれます。オーラは心の動きですから、常に崇高さを目指してるのです。日常ではありません、お笑いでもありません。むしろほの暗いでしょう。

 

賢いことに昔の人は、これは芸術になりやすい、とか、これは芸術になりにくい、とかを分類しました。なりやすいもの、それが映画の鑑賞・絵画の鑑賞・彫刻の鑑賞・版画の鑑賞、陶芸・文芸・手芸・工芸・服飾デザイン・和洋菓子製菓・舞踊なのです。なりにくいもの、それがスポーツであり、見世物小屋の大衆芸能(今ならテレビドラマ)であり、お風呂入浴であり、歌舞伎や狂言の演目(その姿形と舞踊は芸術だけどその演目内容は芸術なんかじゃない)であり、散歩ジョギングサイクリングであり、学問であり、硬筆筆記(書道を除く)であり、町中華であり、宗教の祈り(あくまでも祈りだけ、チャペルお寺仏像は芸術、芸術を拝むのは宗教じゃなくなるから偶像崇拝を禁止したがる)、キャンプであるのです。

さらに分類すると、なりやすいと言っても、音楽・映画・舞踊・ミュージカル(オペラ)の4つだけには他にはない有利さがあります。作品がそこにあるだけではなく、演者がそこにいるのです。ダブルで感じられるから、これがオーラだと気が付きやすいのです。音楽なら演奏者がそこにいますが、絵画なら画家はここにいません。

なりにくいと言っても「感動する要素」を含むものもあります。狙い通りに感動させられてしまいます。スポーツやテレビドラマなどですね。

「それはギリで芸術じゃない」とは、前提条件(これが芸術)と、2番目(大衆的じゃない)と、4番目(崇高さを目指す)ができてなかったのです。列挙した日本人作曲家のうちまぐれ芸術になってるのは、私の個人的見解によると、ほんの3人(多くとも5人)かな(現役を除く、現役を評価するほどの蛮勇は持ち合わせない)、2人は「なるほどそう来たか」もう1人(多い場合は3人かな)は「そこ行く?」うーん、色々異論もあるでしょう。個人的見解だから今回は名前は控えさせていただきます。人それぞれの思いもあるでしょう。好き嫌いもありますから。今時の歌はプロデュースされる時にあまりにポピュラーを要求されます。その上、崇高さを遠ざけようとする傾向が見受けられます。世界観はたっぷりあるのに、誇張もしっかりやっているのに、惜しかったですね。

 

そして、崇高さを更に高みへと導いてくれるものが「卓越した技術」です。卓越した技術力が更なる高みへと誘って(いざなって)くれます。技術力があることは思ったほど引かれません。ドン引きされるかと思いましたが引かれません。わかるはずはないけど、わからないなりに卓越した技術に触れたら、彼等なりに優れた面を感じられるのでしょう(そういう私もその一人)。卓越した技術は、時に「プロフェッショナルの象徴」と言われます。それに触れた時「流石にプロだ(アマチュアでもこの時だけはプロ扱い)」と感心してしまいますよね。きっと長い時間練習したのに違いない、などと。でも私はこのように思います、長い時間毎日演奏し続けたのには違いないが、練習したというのはちょっと違うな。そう、あれは練習ではないのです、自分の演奏を聞いてただうっとりしてるだけなのです。「練習した」のではなく「練習になっちゃった」のです。「上手い」のではなく「上手くなってしまった」のです。1日に12時間演奏し続けても平気です。そりゃそんなに長い時間演奏し続ければ、嫌でも技術は向上してしまうでしょう(個人差あります)。

 

卓越した技術によって高みに至った芸術は、やがて「様式」や「形式」になります。様式は大勢で時間をかけてゆっくり作り上げるものです。様式になったら、簡単にうち破れるものではありません。

 

それをうち破ろうとするものが「前衛芸術」です。前衛芸術に卓越した技術は不要です。ひらめきこそが大事です。

 

前衛芸術にも、やがていつの日か「呼び名」がついて、芸術の一種になるかもしれません。ならないかもしれません。私は個人的にはなれないと思います。ひらめきが大事ですって?随分な閉塞感。おしまいの予感かな?(そうであって欲しくはありませんけど)

ついでに申し上げますが、様式に属したままでたった一人でうち破ろうとしたのが「天才」です。うち破ろうとまでは考えていなかったかもしれないけど、その姿だけは新しい様式を作り出そうと思ってるように見えます。ピカソでしょう?ガウディでしょう?ベートーベンでしょう?

 

まとめます。

芸術は「世界観があるオーラ」です。

オーラは「崇高さ」を目指します。

崇高さをもたらすものは「卓越した技術」です。

卓越した技術によって、最高位までに高められた芸術はやがて「様式」を生み出します。

様式の破壊者が「前衛芸術」なのです。

前衛芸術には「閉塞感」があります。

閉塞してるから、芸術はもうおしまいかもしれません。

 

前衛芸術といえば、なぜ普段から彼等はあんな奇抜な格好をしているのでしょうか?それは、彼等も「芸術は誇張だ」と見抜いているからに違いありません。その方法論はとにかくとして(いくら何でも見た目がねえ)、やろうとしてることの方向づけは間違ってないかと思います。その上「奇抜な格好」は日常的ではありません(日常だったら俺が悩む)。最近では、海外のオペラ界でも時々見受けられ ます。あれは何という名前だったかな?女の人です。ミル・マスカラスだったかな?あれは男、昔の覆面プロレスラー。あ、そうだ。マリア・カラス(ギリシャ系アメリカ人)。なんだ、カラス繋がりか。彼女もぶっ飛んだ発言そしてぶっ飛んだ格好、ついでにぶっ飛んだ私生活です(略奪愛で勝ち取った有名な大富豪を別の女に戦いの上略奪された、その女の名はケネディ未亡人、女って恐いな、でも石油王オナシス、羨ましいぞ何なんだ)。60年前のオペラ界の奇抜な格好ですから、今改めて見ると案外まとも、むしろ綺麗、先取りかもしれません。でもその重低音を思わせるソプラノ(んなわけないか、気のせいだきっと)、歌い出す直前の瞼の綴じ方にはなかなか見所があります。

 

最後に、ここまで芸術と音楽を一緒に絡めてお話して来ましたけど、ここで音楽に限ってお話しをします。皆さんは音楽にとって一番大切なものは何だと思いますか?

普通の感覚の人なら、100人中99人が「音程」もしくは「音感」と答えるでしょう。・・・・違います。確かにとっても大切ですが、二番目です、一番ではありません。ダントツの一番二番ですが「最も」ではありません。それは何かというと「リズム感」です。先天的に持ってる人もいますが、ほとんどは後天的です。だから幼児教育なのです。ちなみに、沖縄県生まれの人はみんな優秀です(エイサーもあるし、環境のお陰?)。

 

ふぅ、今回もまた果てしなき長文になってしまいました。どうも申し訳ありませんでした。最後までお付き合いくださいましてどうもありがとうございました。芸術がテーマであるのにも関わらずロマンチックの破片もありませんでしたね。私にそれを要求するのが無茶なのです。私の見た目を御覧ください、知ってる人は知ってるのですが、ぶっきらぼうが服を着て電動車椅子に乗ってるようなものです。今回もまた堅いお話に終始してしまいました。これが私のブログなのです。次回のテーマは「動くものを好む」の予定です。それではご機嫌よう、さようなら。