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長過ぎね?俺の随筆(その20)『特別な観測者など存在しない』

長過ぎね?俺の随筆

こんにちは、相変わらずというか何というか、毎日毎日ものすごく暑いですね、ちっとも涼しくなりませんね。お元気でお過ごしでしょうか。私は相も変わらず元気です。早速ですが今回も長すぎるブログを書き進めたいと思います。今回のテーマは「特別な観測者など存在しない」です。

 

「私達は常識に捕らわれ過ぎてしまってる。当たり前だと思ってはいないか。慎まなくてはならない」

どこかの何かの評論家と名乗る人が、何かのテレビ番組で、「マウントを取る」とでも言うのかな、勝ち誇ったように喋ってるのを見て私はこう思いました。「慎めなんて言われてもなぁ。何をどうせい、って言うんじゃ」。しかし、各論で言えばこの人の態度は尊大(=偉そうだ、の意)だけど、総論で言えば確かにそうかなぁ、とわけも解らず思いました。

その時突然、フッと思い出しました。 こんなこと、いったいどこで知ったのだったかな?と思わずにはいられません。「常識に捕らわれてはいけない」という台詞(せりふ)に触れて、私はこのように思います。「えっ、常識に捕らわれると言えば、何かしら標語みたいなのがあったな、何だったかな?」。うろ覚えだけどその名前はたしか「○○○○○の原理」と言います。「こういう気持ちを持ってたらいいな」、という心持ちのことです(なくてもそれなりに生きられるけど)。○○○○○にはギリシャもしくはイタリアあたりの南欧風の有名な学者の名前(ピタゴラスやソクラテスやアルキメデスみたいな)が入ったと思います。あっ、書いてるうちに思い出しました。「コペルニクスの原理」です (たしか南欧じゃなくポーランドの人だった、すんません) 。コペルニクスの原理と言っても、コペルニクス本人が考案した考え方ではありません。パラダイムシフトの典型としてつけられた名前です。パラダイムシフトはご存じですか?一言で言えば「一般常識を捨てろ、固定観念を抱いたままでは新しい考え方は生まれない」という意味です。名前に反してわりと最近の考え方です。コペルニクスの原理は、原理というだけあって、唯一無二の心持ちで、所有してることがとても稀だけどあると嬉しいものです。 これを目撃したのは、何かの雑誌の記事だったかな?それともテレビの特集か何かだったかな?あなたは以下の文章を読んでどう思いますか。

 

ある日あなたは観光地にある古い木造建築を見に行きました。その建物はもう1200年位そこに建ってるそうです。ふうん、1200年も前からこんな立派な建物がここにあるのか。昔の人はさぞや驚いたに違いない、と、あなたは感銘を受けました。・・・さて、あなたは、家に帰った後に「明後日にはこの建物は寿命によって倒壊してしまうだろう」と言われたら、その言葉を信じますか?

あなたはこう思うはずです。いやいや、とても信じられない。今まで1200年も建ち続けて来たけど、自分が知る限り、1200年もの間に倒壊の危機はなかったはず。俺が見た時も倒壊する気配はなかった。それが明後日に倒れる?今まで1200年も無事に建ち続けて来たのに、何故いきなり明後日?いくらなんでも突然過ぎるんじゃないか?そんなことはないだろう、少なくともあと400~500年以上はもつだろう?1200年に対して3日だぞ、いったい何%の確率なのか。俺はそんな特別な観測者じゃない。歴史的倒壊を目撃するような特別な存在じゃない。などと。

翻って(ひるがえって)、あなたは、家に帰った後に「あの建物は、あと10万年は建ってるでしょう」と言われたら、その言葉を信じますか?

あなたはこう思うはずです。いやいや、とても信じられない。確かに今日まで1200年も建ち続けて来た。だけど、この建物は紛れもなく木造建築だ。やがて腐ってしまって倒壊するだろう。 10万年はとても無理。いいところ400~500年だろう。もしも10万年が本当なら、俺はこの建物にとって「極めて初期の見学者」になってしまうではないか。10万年のうちの1200年だよ。いったい何%に含まれるというのか?俺はそんな特別な観測者じゃない。

 

このコペルニクスの原理には、確かキャッチフレーズがありました。「特別な観測者など存在しない」。これが私にとっては不思議過ぎて、どうしても忘れられませんでした。

コペルニクスの原理と名付けられたこの言葉の意味と、キャッチフレーズと位置付けられたこの「特別な観測者など存在しない」の言葉の意味は、とんでもなくかけ離れてますよね?一方では「常識を捨てろ」一方では「常識的な出来事しか起こらない」。真逆です。正反対です。各々(それぞれ)にはわかるけど、一見すると何の関連もないこの言葉が、なぜキャッチフレーズと呼ばれるのか、どうしてもわかりません。なぜ真逆のキャッチフレーズを付けたのか、この言葉(「特別な観測者」のくだり)をどのように解釈すればいいか、ご存知でしたら、是非メールください(マジですinfo@yumenoie.or.jp)。

正解は聞いたことがありませんから、自分流の解釈をします(でしゃばってすみません)。それによると、「コペルニクスの原理を達成できた」と言って喜んでばかりではいけない、日常生活は何も変わらない。逆転の発想ができて全ての疑問が解けたとしても、昨日と同じように太陽は東から出て西に沈む、月も東から出て西に沈む。何も特別なことは起こらない。記念日だと言って、珍しいことも起こらない。ワクワクしながら奇跡を待つのは嬉しいけど虚しい。人並みな観測者にはなれるけど、特別な観測者にはなれないよ。と教えてくれようとしてるのだと思います。これは、確率論とも言えますね。

特別な観測者になれない予兆として、脳が勝手に、場所と数字を予測してしまう特徴がみられるとも言います。そう言われれば、先程も私も「あと400~500年」と、反論を滲ませながらやってましたね。物語に寄せ過ぎだから、触れ幅は滅茶くちゃ大きいけど。

それは兎に角として、今までに私(あなたもね)は、無意識のうちにセオリーどおり2つのことを予想しています。まずひとつ、場所の予測。「この場所は法隆寺に違いない」。はい、正解。

続けてふたつ目、所時間の予測。「明後日に倒壊することはないだろうが、10万年と言われても信じられない。いいとこ400~500年位だろう?」。はい、たぶん正解(と思う)。これらのことはコペルニクスの原理が成立しないことの特徴だそうです。場と数量を想像したら、それは「脳内で自分でも知らないうちにコペルニクスの原理を放棄、現状に合わせに行ってる、その時脳は何か適当な言い訳を探してる」のサインだそうです。自分でも知らないうちに勝手に予想するから「特別な観測者など存在しない」と言い切ることができるのです。

脳は勝手に予測します。勝手かつ自動的に予想してしまうことによって、ごく稀(まれ)に助かった時もあれば、殆どの場合はひどい目に遭いました。無意識のうちに予想などするからです。この「癖」は、いったい誰の許しを取ったと言うのでしょうか? 法隆寺の話しはひとつの例え話ですが、物事が起きる時は、それらは事件などではなく、ごく普通のこととして起きるものです。特別なことが起きるから事件と呼ばれるのです。そして事件に遭遇してしまう確率は極めて低いと知るべきです。あなたも私も「特別な観測者」にはなれません。

 

脳ミソが勝手に予想する、というのは、私達の日常品生活においてでもたくさん見られます。脳が勝手に予想するから、見えないはずの物が見えて、見えるはずの物が見えないでしまうのです。

 

でも「錯覚」とは混同しないようにしなくてはなりません。「何か見えたような気がする」など、錯覚は誰にでも同じように起きるのです。ここで錯覚の実例をいくつかご紹介しましょう。

まず、1つ。鬼や幽霊は「人間の想像の産物」だと言われてますね。「それはどこかに確かにいる」などと。「いる」と思うからいてしまうのです。「いない」と思ったら見事にいません。これはパラダイムシフトではありません。錯覚です。「いてくれ」あるいは「いるはずだ」とか「いるはずがない。だけど、ほら、いた。恐いよう」という期待を含んでます。そういう意味では、あるいは宗教もそうなのかもしれません。

ふたつ目、手品の実例。ボールを投げる、お手玉みたいに。右手で投げては左手で受ける、左手で投げては右手で受ける。これを何回も繰り返し、最後だけ投げない。これだけでボールは消えます。脳ミソが勝手に「ほら、投げた」と予想してるのです。見事に錯覚です。

3つ目。オレンジ色のジュース。これは本当にオレンジジュースでしょうか?透明タイプの林檎ジュースにただオレンジ色に着色をしてるだけかもしれません。これも錯覚です。物事は見た目が全てではありません。思い込みに騙されてはなりません。

逆にコペルニクスの原理が無駄に作用して邪魔してる事例をご紹介します。テレビで時々見かけるのですが、芸人さんが自分からは見えない箱の中に両手首だけ突っ込んで、中に入れてあるものを当てるというゲームをやってるのを、見掛けたことはありませんか?なぜ彼等はあんなに恐がると思いますか?それは、あの場面ではコペルニクスの原理が邪魔するからです。常識に捕らわれてはいない何かが、次から次へと浮かんで来るのです。パラダイムシフトは、こういう時だけよく効いて、働いてほしい時は思うように働かないものですね。

5つ目。こういうものがパラダイムシフトの実例だ、こういうことを思いつくのがコペルニクスの原理と呼ぶことができるんだ、という実例をふたつご紹介しましょう。時計というものはなぜ針が動くのでしょうか?文字盤が動いてもいいんじゃないでしょうか?針のほうが動くからこそ、時間は定速しかも左から右への一方通行、と思い込み(勘違い)するのです。この事象については、1ブログ書くことができるほど言いたいことがいっぱいありますから、詳細は後日とさせていただきます。今のところは「ははあ、こういうことが言いたいんだな」感触だけを大雑把に掴んでいただけるといいと思います。文字盤のほうが動くべき、この心理心象こそパラダイムシフトなのです。

最後に6つ目。あなたは、中島みゆきさんの「空と君のあいだに」という曲をご記憶でしょうか?

「君が涙の時には僕はポプラの枝になる、

孤独な人につけ込むようなことは僕には言えなくて、

君を泣かせたやつの正体を僕は知ってた、

ひきとめた僕を君は振り払った遠い夜、

ここにいるよ愛はいつまでも、

ここにいるよいつまでも、

空と君との間には今日も冷たい雨が降る、

君が笑ってくれるなら僕は悪にでもなる」

 

平成初期の音楽でミリオンセラーの大ヒット曲でした。かつての私は、歌の歌詞にはむちゃくちゃ興味がありました。「空と君のあいだに」の君って誰だろう?君といえば普通使いの2人称、恋人関係の異性、その地区を統括する者の敬称(例えば天皇陛下)、と使いどころは様々です。ある日私は会社の近所の喫茶店で独り静かにランチを食してました。その時突然ひらめきました。私は「ああっ!そうか!そう言うことか!」と立ち上がって叫んでいました。周りの人々は急いで席を立って一斉に逃げ出しました。テレビドラマみたいに私を遠巻きにして、同心円の真ん中で、私は独りぼっちにされました。2本の箸を竹刀(しない)みたいに身構える人もいました。あの歌詞の「ひとつひとつの言葉の意味はわかるけど、流れはちょっと変」な言い方。僕って誰さ?君って誰さ?と思わずにはいられませんでした。歌詞を聞く限り、若い女性が悪い男に振り回された恨み節のようにも聞こえるけど、ちょっと違うな。歌詞に整合性が取れて、空と君をひとつの視界に入れることができる目の位置。・・・・そうか!間違いありません。瞬時にパパッと繋がりました。これは飼い犬視線です。君とは若い女性の飼い主で、僕とは飼い犬(たぶんオス)だったのです。恐らく日本初のペット目線の唄だったのです(その後幾つか聞いた)。これはまさしくパラダイムシフトそのものです。この驚くべき着眼点。中島みゆきさん、すごい。

ところで私は、この「コペルニクスの原理」を説明してるうちに、なぜか「宝くじ」のことを思い出しました。特別な観測者など存在しない。この「特別な観測者」を「特別な購入者」に置き換えるだけです。私は、何度「名駅の宝くじチャンスセンターまでわざわざ出掛けて、連番で30枚」を購入したことでしょう。その場所でそれだけ買った人がよく当たると聞いたからです。ものの見事に場所と購入枚数を提示しています。そして、やっぱりものの見事に、あたりまえのように大外れの連続でした。かすりもしませんでした。ここには「特別な購入者」など存在しませんでした。

 

これを読んで下さってるこの施設の介護職の方には、この「コペルニクスの原理」は、あるいは危険思想かもしれません。通常では「身障者の日常生活」を取り扱ってるためです。コペルニクスの原理など、働かないほうがいいです。いつもと同じ、がいいです。でも「いざと言う時」や「人生の一大事」には、このコペルニクスの原理を頭の片隅にでも、入れておいたらあるいは人生が豊かになるかもしれません。

 

時計のお話しの続きは第28回あたりのブログで。

 

 

またもや今回も長文になってしまいました。最後までお付き合いくださいましてどうもありがとうございました。次回のテーマは「冠婚葬祭」の予定です。それではご機嫌よう、さようなら。