こんにちは。お元気ですか?私は元気です。最近の巷(ちまた)の話題は「お米がチョー高いから買いたくても買えない」。この施設の介護士さん逹も例外ではなく高いと感じてる様子です。人はパンのみに生きてるらしいです(どこかで聞いたことあるなぁ)。のほほんと施設で暮らしてる私には、自分で自分の食品管理をすることなんか絶対にあり得ないから、お米が高いと実感することなんて残念ながらありません。私の予想したとおりに、政府の手による「備蓄米の放出・第1回と第2回」は大失敗して、時の大臣◯とーさんは失言した機会に選手交代。騒ぎになった当初は、競争入札によって放出した備蓄米に対して不自然に「備蓄米」だと宣伝するのは禁止して、シールも貼るなのお達し。騒ぎになって以降さえ、なぞの決まり事連発。卸売業者のランクって何?それ以外参入不可って何?競争入札と随意契約。随意の意味、おわかりですか?公的機関がやるなら基本的には競争入札のほうです(そうしなさいという法律あり)。高値を申し出た者の勝ち。随意契約のほうは価格固定で入札者を決めるのは出品者(お国)の随意。こんなことやるのは、タイミングからして選挙対策だとは思わなくもないけど、もの凄く時宜(じぎ)を得てます。当初はニュースでも禁句。ははぁ、ざい◯省の思惑ね、随意を許可したのもざい◯省。作況指数の誤謬(ごびゅう)じゃないの?農政の瑕疵(かし)じゃないの?プラザ合意で為替操作爆弾を喰らった時も、工業や金融業を見捨ててでさえ守ろうとした農業なのに。それにしても、時の大臣、こうも空振り続きじゃなぁ。「米の値段は下がるに違いない。それはいつだって?新米が出回ったら、備蓄米が放出されたら、私の家には売るほど米はある」はい、3回空振りしたから三振! ♪うぉう、うぉう、うぉうおー、三振タイガーズ、振れっ振れっ振れー(六甲おどし)。それほど言うなら俺に売ってくれ。野党も野党、「バナナの叩き売り」、「来年には家畜の餌」。家畜の餌で人気がた落ち、俺の食いもんだもの。漫談のツカミのつもりなの?笑えない、スベリまくってるぞ。ピンチヒッター◯泉。ここで代打かい、と思いましたが、お陰で「どこで滞っているのか」ということがよく見えて来ました。急に動き始めました。なかなかやるなぁ、代打◯泉。おまえが打たなきゃ誰が打つ♪(ドベゴンズの応援歌)。残るはこの急騰した原因の解明です(わかったとしても言えないか)。そして、農家さんが持続可能な米作へと(これ大事)。JAはやっぱり「旧・農業協同組合」のままではダメなのです。何かを変えなきゃ。商流を変えなきゃ。彼が出てきてとりあえず空気は変わった。このタイプの人は「リーダーにすると何かやらかしてくれるけど、プレーヤーをやらせると結果を出す」。財務省は恐いけど。さぁ、これからです。お手並み拝見。今回のテーマは「仏様の順位表」 です。
かつて私は、仏様には身分上の順位というものがあると聞きました。そして、順位表というものを見せられたことがあります。順位表にはこのように書かれてました。第1位「如来(にょらい)」・第2位「菩薩(ぼさつ)」・第3位…ええとおー。このあたりから徐々に私の記憶も薄れて行きます。ランク付けなんて、ちょっと(ずいぶん、とも言う)らしくないですね。違和感ありまくりです。違和感だけで、批判調主体の1ブログ書けてしまいそうです(炎上を危惧してやめとく)。仏教関係の方、違和感なんて言ってどうもすみません。このブログは決して批判的なものではありません。
順位付けしたその理由や、成立までの経緯(いきさつ)や、時代背景に鑑みると、私は「順位付けに陥ってしまったのも、さもありなん」と思いました。私は、これは順位なんかじゃないと思います。考案者さん(お釈迦様かな?)は、順位付けなんてしたつもりなんてなかったと思います。サンスクリット語から中国語への翻訳をした時の踏み込み過ぎだと思います。仕方なかったと思います。衆生(大衆)が受け入れやすい言葉を選んだ結果だと思います。順位付けした原因は、翻訳のやり方の齟齬(そご・見解の不一致)です。
だけどこの場で本当に大切なのは、これを聞いた時の私のあなたの反応のし方です。
反応とは、3種類あります。
1・「仏様なんかに興味はないな、あっそう…次、次」(仏様に対してなんか呼ばわりしないでくれよ、俺の陰の声)
2・「何い!順位付けだと?看過できない。怒り心頭だ」
3・「仏様の順位なんかに興味はないけど、とりあえずできるとこまで覚えて置くか、話し半分で。いつかまた再びこんな場面に出会うこともあるだろう。正しいかどうかはわからないけど、その時何かの役に立つかもしれない。正解がわかったら、後で記憶を上書きすれば良い。忘れてしまった時は、そういうご縁だったのさ」
あなたはこの3つのうちのどれですか?
これは「人の生き方」にまで関わって来ると思います。仏教に対しての興味の有る無しではありません。知識が増えて豊かな人生を送ることができるという話しだけでもありません。「人の生き方」です。頭を使うことはタダ(無料)です。容量も無限大。万一忘れても、咎める人もありません。覚えておいて損はありません。賢い選択を常に心掛けてる人ならば、必ず記憶しておきたいと思うはずです。つまり「この人は賢い人か賢くない人か」の分岐点だと思うのです。
私の場合は、知識として「そういうものがあるんだ」とは薄々知ってはいたけれど、せいぜい1位2位のランキングと一部の仏様の本名を知ってた程度です。今回このブログを書こうと思い立ってから色々詳しく調べてみました。
その結果、その時目撃した仏様の順位とは、第1位「如来(にょらい)」・第2位「菩薩(ぼさつ)」・第3位「明王(みょうおう)」・第4位「天部(てんぶ)」でした。如来が一番偉い人?なんですって(薄々知ってた)。しかも、天部という位の人が最下位なんですねぇ(知らなかった)。仏様なのに最下位?順位付けがあるの?
しかし、ものの本の説明によると、これらは1位2位3位4位と解釈するのではなく、役割別に分かれてるんだそうです。中国語に翻訳される時に「悟りを開いた菩薩が、更に高じて如来になった」という行(くだり)のことを「なんだ。悟りを開く前後か(前後じゃなくて、開いた後と、後のその後だけど)。要約すれば、つまり1位と2位か、一言で言えば順位だな」と解釈してしまったのです。だけどその翻訳のし方が、軽はずみだったとも言えません。齟齬でした。
例えば3位の明王といえば「不動明王」(様を付けなきゃいかんかな?)が有名ですが、彼はいつどこで見ても仏様に似つかわしくない恐い顔つきをしてます。なぜなら、明王とはセキュリティーの仕事に携わる仏様だから、だそうです。つまり、如来の方々のSPです。私は確かその昔、不動明王とは密教代表である大日如来の化身だと聞いたような気がするけど、実はSPだったのか。そりゃ、警備警護関係の人なら恐い顔つきにもなりそう。明王は、5大明王として名高いのが「不動明王」で、その他の4人は「降三世明王」「軍茶利明王」「大威徳明王」「金剛夜叉明王」だそうです。明王様が全部で何人いらっしゃるのかはわかりませんでした。初めて知りました。今日の今日まで、不動明王様以外は知りませんでした。
ことのついでに、天部(様を付けなきゃいかんかな?)の代表的な名前を挙げると、帝釈天・梵天・持国天・増長天・広目天・多聞天・毘沙門天(びしゃもんてん)・弁財天・吉祥天・大黒天・韋駄天・磨莉支天・歓喜天・鬼子母神・金剛力士、だそうです。何となく聞いたことある名前が多いみたいです。ははあ、天部の天か!だから片っ端から「天」が付くんだ、韋駄天ってかけっこが速い昔ばなしの人の名前じゃなくて「韋駄という名の天の位の速く走れる仏様」だったのか。知れてよかったぁ、長生きはするもんだ。
仏教はインド発祥なのは有名です。インドはイギリスから独立する時にインドとセイロン(今のスリランカ)とパキスタンとに3分割されました。分けられた理由は「宗教」。宗教に翻弄されたからです。インドはヒンズー教、パキスタンはスタンが付くからイスラーム教(国名にスタン付きはいっぱいある、スタンとは確か王様の意味・サルタンとも)、セイロンが小乗仏教(日本とは違う、日本は大乗仏教)です。ついでに言及しますが、私がまだ幼かった頃はパキスタンはインドを挟んで東と西に分かれてました。今のバングラデシュの当時の呼び名が「東パキスタン」でした。いずれにしても、発祥の地さえも最早宗教は仏教ではないのですね。ヒンズー教には厳格な身分制度があります。確かカーストと言ったかな。つまり、翻訳する前の経典に、そういう社会背景が滲み出してしまってるのかもしれないのです。少なくとも私だけはそのように感じられました。社会背景や宗教の歴史に翻弄されて国が分かれた。経典の翻訳について、私ごときに違和感なんて言われた。
如来の名前には、「釈迦」と「阿弥陀」と「薬師」と「大日(だいにち)」と「慮遮那(るしゃな)」の5人がいます。如来とは「行けるとこまで行った人」という意味があるそうです。行った人?仏様は実は人だったんですねぇ(ほっとした、よかったぁ、これでおおっぴらに人だと呼べる)。その5人の名前、みんな聞いたことあるなぁ、ちなみに大日はこの付近では八事興正寺の本尊で、るしゃなは奈良の東大寺大仏の本名です。
菩薩は、既に悟りは開いているけど、更に進化して、近い将来如来になることがほぼ決まってる人の呼び名だそうです。観世音(観音)と文殊と地蔵と至勢と普賢と弥勒(みろく)の6人がいます。「ほぼ仏、悟りという目的にたどり着いた人」のことだそうです。・・・・ほぼ仏?ほぼ?目的って何の目的?悟りって誰が決めたんだ?悟りって「はい、さとりオープン」と宣言するだけで開くものなの?
人というものはランキングが大好きです。歌番組を見てても、今週末のランキング、春に聞きたい歌ランキング、卒業式で歌いたい歌ランキング、歌ウマと思う歌ランキング、ランキングのオンパレードです。格付けチェックというのもありますね。「誰が判るか、A or B」というやつですが、要するにあれも順位付け
です。一番わかってるやつは誰?一番わかってないやつは誰?その中間で思い悩んでるやつは誰?
他人には順位を押し付けて、自分の偉さを醸し出そう(かもしだそう)とするのは「多神教あるある」です。順位など一神教にはありません。出現したのは一神教のほうが後だから、一神教の人たちは「俺たちは多神教の進化形」と言い張ってるのをしばしば耳にします。だけど私は「あながちそうでもない」と思います。キリスト教とかイスラーム教とかの一神教ならば「唯一の神様が絶対」なので、1位以外はあり得ないため順位なんてありません。
あれやこれや言いましたけど、人が順位付けする原因は人間にあるのだけど、そもそもが順位付けしてしまう原因は「仏様の存在」なのです。
次回のブログのテーマは「誕生日って何?」の予定です。それではご機嫌よう、さようなら。
