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長過ぎね?俺の随筆(その37)『ちょうちょの真っ直ぐ』

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こんにちは。いかがお過ごしでしょうか。私は元気です。昨日のことです。私は、入所以降初めてこの施設の1階に併設されてる「デイサービス」に見学に行ってきました(コロナ再流行の前)。廊下の突き当たりにあるたった1枚の扉が「ものすごく高い敷居」に感じてしまっていました。もう10年以上です。「こんなことではいかん。突破しよう。遅すぎることはないはずだ」と扉の前に立ちました(立ってないけど)。1度見た程度では何も気が付かない(付けない)と思います。これからも時々見学したいと思います。まずは「はじめの一歩」なのですが、そこで感じたことは「俺が知ってるデイサービスより、意志の疎通が難しい人に対しての声かけが多いな。逆に、コミニュケーション可能な人に対する声かけが、ないとは言わないけど、短いな」でした。短くなる原因はマンパワー不足だと思います。職員数は多くも少なくもありません。職員数は確か法律で定められてました。これは政治を変えなきゃならないな。と思いました。ならば法律を変えよう・・・・。

おおごと(革命)になる前に、今回もブログを書いてみます。題して「ちょうちょの真っ直ぐ」です。

 

鳥は大空を悠々と飛ぶことができます。「悠々」のわけは、翼の部品である風切羽(かざきりば)。飛行機で言えば「フラップ」の位置に存在する羽の仕業(お陰)だそうです。主翼後縁フラップと同じような効果らしいです(現代の戦闘機には前縁フラップもあります)。揚力・推進力・浮力・安定的な長距離飛行・三次元的な方向制御、飛ぶためには、いろいろ考えなくてはならないですもんね。そのうちに特に「滑空性能」が鳥に特有です。見るからに安定感があります。風切羽のお陰で直線的に飛べます。さすが恐竜の進化発展形の鳥、やるなあ。中には、ペンギンや鶏(にわとり)やダチョウみたいに、羽はあるくせに飛ばないやつもたまにはいるけど、大多数の鳥類はスムーズに空を飛ぶことができます。大型の鳥類の中には、ほとんど羽ばたくこともなく、わずかばかりの上昇気流を巧みに捉えて(上昇気流は見えたことも感じたこともないけどたぶん存在する)、あたかも大空を浮遊してるかと思わせる飛びかたをする種類もいます。

気持ちよさそうだなぁ。俺もあんなふうに空を飛んでみたいものだ。

それに引き換え、てんとう虫は?蝉は?バッタは?蝿は?蝶や蛾は?飛行する虫(トンボを除く)はどれもジグザグに飛びますね。昆虫の飛びかたはどうしてあんなにぎこちないんでしょうか?昆虫には風切羽はありません。飛んでも、意に反してジグザグになってしまうのです。どうやら少なくとも目的地にはたどり着いてるようですが、極めて不安定な軌跡です。滅多に飛ばないゴキちゃんが飛んだら、その不安定さも相まって「恐怖感」さえ覚えてしまいます。ちなみに私はゴキちゃんが苦手です。東京で一人暮らししてた頃、床に布団を敷いて寝てる時に鼻のてっぺんを歩いて横断されて、それ以来大嫌いになりました。

 

「目的地に辿り着きさえすればいい」たぶん昆虫の飛行とはこのようなコンセプトなのでしょうが、それでは、見る者にあまりにも夢を与えなさ過ぎます。夢は、ないよりあったほうがいいですもんね?

 

ちょうちょはヒラヒラと飛びます。あの飛びかたのお陰で「ああ、綺麗だ、どことなくはかなげ、見てるだけで俳句でも生まれそう」なんて思います。だけどそれは「ヒラヒラ飛んでる」と思うからそう感じるのです。「フラフラと飛んでる」と思ったら、これはどう感じるのでしょうか?少なくとも、情緒的なんかではありません。ヒとフと、一文字違いなのに。

欧米人は「虫の鳴き声」は雑音にしか聞こえないそうです。でも我々日本人には「なんだか風情が感じられる、いいもんだなぁ」と感じます。ヒラヒラとフラフラはこれに似てるのではないでしょうか?それは「入力した音声情報が脳内で処理される位置」の違いだと聞いたことあります。じゃあすべからく欧米人は、虫の鳴き声を「やかましい」と感じるのと同じように、あの飛び方がフラフラと酔っ払っているように見えてるというの?ヒラヒラもフラフラも受け止め方の違いだけなのに。

 

私が思うに、あれがちょうちょの真っ直ぐなのです。複眼の目が側面に離れて付いてたら、獲物や天敵の発見は早いだろうけど、目に映ることが大切なのであって遠近感なんてどうでもいいんじゃないの?自身の姿勢制御なんかは大切じゃないんじゃないの?不安定だと感じるのは人間基準に過ぎない。人間の目にはフラフラに見えるけど、目的地に辿り着くというコンセプトのちょうちょたちは何の不満も不自由もないだろう(たぶん)。目的が達成できて満足だろう(たぶん)。普通であることが幸せならば、普通の飛びかたができること、これ以上の幸せはない。おそらく意識というものがないから、彼らは幸せを実感してはいないだろうけど、満足ならばそれに勝る幸せはない。人間基準で見るから不安定なだけであって、ちょうちょにとっては安定も不安定もないのではないか?そういう考え方をするのは人間の事情だけではないだろうか?

 

あれがちょうちょの真っ直ぐなのです。

 

ハムスターの仕草はいつも可愛らしいですね。ケージの中の水車みたいなもの。中に入って無限に走らせるやつ、たしか「回し車」という呼び方だったかな?丸いやつだけじゃなく、四角い回し車もありますね。四角いやつのほうが高い運動神経を求められるみたいです。あれは「狭いケージの中での運動不足解消のため」と言われてます。ペットショップの店員さんに「運動不足解消はハムスターには見落とされ勝ち、ケージをお求めならご一緒にお買い求めされてはいかがでしょうか」と力説されたら思わず購入してしまいます。購入してからよく見ると、ただひたすら走る姿が可愛いです。

「可愛いい」と思う気持ちは悪いことではありません。可愛いいと思うその姿を求めて生物を自分の縄張りの中に招き入れる、それが「愛玩動物(英語で言えばペット)を飼う」ということだと思うのです(難しく言ってしまったけど当たり前か)。「俺は俺にしか手が届かない世界の下で動物を住まわせてる」という優越感の副産物なのかもしれませんね。でも、生活のために荷役馬や農耕牛を飼う、いつか食べるために鶏や豚を飼う、とは明らかに違います。「観葉植物を育てる」というのも、暮らしのためではなく癒しのためだという点においてペットを飼うことにかなり似てるのですが、私は観葉植物とペットではちょっと違うと思います。動物のほうが圧倒的に飼い主の負担が大きいです。その代わり、得られる癒しも絶大です。

目の前に回し車を仕込まれてついでに胴体をつまみ上げられて、そして降ろされて「さあ走れ」とでも言わんばかり

走らされて、聞こえる歓声は「わぁ、可愛い!」。だけどこっちは息も絶え絶え。トムとジェリーのジェリーでもあるまいに、肩でゼイゼイハアハアと息を荒げることもできません。だけど、目の前にあるとついつい走ってしまうみたいです(自覚がない)。そしてそれが「ハムスターのかけっこ」なのです。とっとこハム太郎は命を削って走り続けるのです。「とっとこ走るハム太郎は命懸け」なのです。

 

私の書きたいことはわかっていただくことができたでしょうか。「あれっ?ちょうちょは変な飛び方だなぁ」。このうちの「変」が自分基準なのです。自分(人間)基準で見るから「変」なのです。見かけだけで物事を判断してはなりません。間違ってるとまでは言わないけど、自分の発想力以上のことも考えなくてはならない時もあるのです(むしろそっち寄り)。ヒラヒラだろうがフラフラだろうがあれが真っ直ぐ。かわいらし仕草だけど実は息切れ。多様性は確かにあります。

 

次回のブログは「円高はなぜ起きる」の予定です。それではご機嫌よう、さようなら。