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長過ぎね?俺の随筆(その50)『人生を後悔したくないなら』

長過ぎね?俺の随筆

こんにちは。お元気ですか?私は元気です。テレビニュースで見かける最近の出来事のうち、最も強く私の気を引いたものは「第2次トランプ政権スタート」のニュースです。世界的にも影響力があると自他共に認めるあのアメリカに現れたこんな大統領。まるで新興宗教の教祖さまを思わせて(政治と宗教は別物だけど)、みんなが彼のことを嫌いなようですが、今までの大統領とは何か違うと私は思います。嫌われることを怖れていなくて、自国の利益優先、即ち自分の価値観だけ。○しばさんとは大違い。いつもかなりやり過ぎだけど、そして確かにめっちゃくちゃだけど、これは何かの始まり(リ・スタート)なのかもしれません。政治家とはカリスマ性がなくてはならぬと思うのです。考え方は違うけど私は彼にかなり期待してます(○泉さんや○べさんがそうだった)。彼のやり方はまず打ち上げ花火ドッカーン。物議を醸し出しておいてから交渉。そのためには普段からのイメージが大事。彼奴(あいつ)は怖いぞって。今はかなり胡散(うさん)臭げで怪しいかもしれないけど。庶民にとって政治とはカリスマ性を望むことだと私は思うのです。過去の失敗に学びつつ。○しばさんでは力不足、明らかになめられている。それを見て思うことは3つ。

まず、「トランプ発令の相互関税」と「令和の米騒動によって備蓄米21万トン放出」の類似性です。全然違う話しに思えるけど、私には同じ源の話しに聞こえます。お互い自分しか見てません。しかも他国に目立ちます。しかも失敗するにおいぷんぷんです。相互関税は国際経済に影響し過ぎだし、国内産業を過大評価し過ぎです。備蓄米放出は遅すぎて少なすぎて、10ヶ月前の読み間違いの責任を取らなさ過ぎです。新米が出たら価格安定するんじゃなかったの?言い出しっぺは誰?ああ、それだけははっきりしてるのね?そして、打つ手が半年遅い。市場に刺激を与えるのには消えた分と同量でいいの?もっと必要なんじゃない?効果を確認してから得意の前言撤回を繰り出したら良かったんじゃないの?20万トンの行き先がわからない?あんなに沢山?いいや、マスコミも政府もわかってるはず。隠してるんじゃないの?確か米にはトレサビリティ(追跡記録)が必要。わかるはず。よもやあの国?はい、そうでした。そりゃあ国際問題だ。発表も批難もしにくい。アメリカも日本も立ち回りが下手。でもこれで学習するかな?

二番目、性転換したスポーツ選手のアメリカ大会参加理由でのトランプ発令の入国拒否のニュースです。男性選手が性転換手術さえ受ければ女性選手。現代の世界は男女平等は当たり前、価値観は多様、これが時代の流れ。私も同じ意見です(私のミテクレと違って)。ただし、スポーツ絡みでは全く賛成できません。昔何かの女子ボクシング大会にて(たしかオリンピック)、女子選手が性転換したジェンダーレスにボコボコにされてる光景を見たことあります。まさしくフルボッコ。たまたまチョッキンでも力の差は歴然。決勝戦までには全部対戦相手が棄権。怖かったんだろうなぁ。私は性転換じゃなく持論転換しました。スポーツは男女平等じゃありません。他のものもそうかもしれません。ジェンダーレスはすぐそこに居てもいいけど(存在は認めるということ)、基本的にはトランプさんの言うとおり「この世の中には、性別は二つだけ、男か女かだけ」少なくともスポーツの世界では。

3つ、現在社会の二大政党の有り様です。二大政党と言えばアメリカ。アメリカのトランプさんのやり方がかなり強引で、その内容や手段方法の良し悪しを考えさせられます。私の目には専制君主に映ります。保護貿易の極端化に映ります。これが最終形なのでしょうか?かつて私は、二大政党制が民主主義の最終形態だなんて教わりました(私はちょっと最終形態という言葉には疑問符付きなのですが)。例えばイギリスの保守党と労働党。アメリカの民主党と共和党。アメリカに見習ってスタートしたという、80年代軍事政権以降の韓国の親米な「国民の力」と反日で北寄りな「共に民主党」、そう言われれば聞いたことあるなぁ、彼らにとっては日本なんかとても真似したくはないわなぁ、でも真似しなくてよかったね。ちょっと壊れてドイツの社会民主党とアルファベット3文字数の何かと何かの集合(SDなんとか?SCなんとか?似たような名前だから覚えられない)、最近では緑の党がちらついてるけど、かつて90年前にやらかしてくれた実績があるドイツには特に気を付けなくてはなりません(ナチスは元々中道党、誰かさんの出現で突然右傾化)。かなり壊れてるフランスなら、共和党、社会党、中道連合、独立党や民主党などの寄せ集め(4位のこれが与党)、王政打破の時のマリー・アントワネットギロチン騒ぎで名高きフランスでもこの体たらく。最終形態であるはずの二大政党制が全世界的にぐらついてますが、最終形態だと言いたくなる気持ちもわからなくもありません。日本にはこの制度は馴染みそうにもないですね。今日もまた「にょきにょき生えた雨後の筍」たちがかしましいです(たま⚫雄一郎さんとか)。今回のテーマは、最近私が思うことにかこつけて「人生を後悔したくないなら」

です。

 

あなたは、アニメ「葬送のフリーレン」のことはご存知ですか?2023年の作品かな?それとも2022年かな?胸を張って「最新」とは言えません。もうご覧になったことがあるかもしれませんね。私は、実際にこの目で見るまでは「タイトルだけは聞いたことはあるけど、内容までは全然知らない」という状態でした。タイトルに葬送?聞きなれない言葉だなぁ、こりゃまた随分おどろおどろしいな。タイトルに似つかわしくないや。その言葉が、見て欲しい人にマイナスイメージを与えかねない。きっと損してる、よくできた漫画なのに。タイトルにフリーレン?怪物の名前だろうか人名だろうか。人間だったら、男かなそれとも女かな?葬送なんて冠言葉(かんむりことば)を持つぐらいだから、もの凄く恐ろしそうな閻魔大王みたいなやつだったりして。

 

だけど実際に見たフリーレンは、身分は魔術使いではあるが次から次へと魔術を操ろうというわけでもなく、至って普通の人間の女の子みたいでした。軽度の魔術は使えるけど、お花畑が一層綺麗に見えてくる魔術なんて何の役にも立ちそうにもないやつばかりだから、進んで使おうとしない。原作作品のストーリー上でも積極的に見せようとはしてませんでした。

至って普通の服を着て、髪型もややアニメっぽいけど至って普通。髪の色も染めてるんだろうけどおとなしめの栗毛色。「あっそう」なんて、何事にも無関心そうにボソボソ喋る子でした。まあまあの可愛い子だけど、かと言って飛びっきりの美人でもないし、しかし不快感を催しそうなへんな顔でもない。どこにでもいそうな子です。そんな彼女が、死んでしまってもういないはずの人、人探しを兼ねた人間追求の旅をするお話しでした。その一行の中でも彼女は中心人物ではありませんでした。ただ、彼女は同行者たちから「樣付け」で呼ばれてました。彼女は「寿命が1000年ある一族の地位がめっちゃ高い人」の出身という設定です。寿命1000年と言うのもあくまでも言い伝えで、そんなに生き続ける生命体を観察し続けた人はいないから、ひょっとしたら「1000年どころか、永遠に死なない一族」かも知れない、ということでした。ああ、だから「葬送」かあ、みんな先立つ運命、探し続ける人さえも。まあ、よもや長寿一族の一人だとは誰も思わないから「何時何時死んだ」なんて記録は誰も残さない(残せない)。そのあたりがはっきりしないのもやむを得ないと思います。そんな設定の彼女がなぜ無関心口調?「あっそう」ばかりか、例えばその身に危険が迫っても「ふうん、そうなのか、そんなものなのか?」。

 

これを見て私は「なるほど、それもそうか」と思いました。死なないと決まると、身の危険にも何事にも無関心に、無責任になるのです。

 

死と孤独と責任と。

 

どれも重たそうですね。どれもめんどくさそうですね。しかし人間は、生き物である限り、これらから目を反らしてはならないと思います。死とは若いうちから常に向き合わなくてはなりません。孤独とも責任とも向き合わなくてはなりません。これらから逃げてばかりいると、人はこのように思います。「病になった俺が今、死にそうなのは理不尽だ。死ぬのは怖い(かつてのブログで怖くはないはずと言ったけど、こういう人は必ずこうなる)。俺は今、一人ぼっちだ、あんなに賑やかだったのに今は誰も付き合ってはくれない。俺は迫って来るものから逃げ回ってた、責任を果たして来なかった。楽しかったけど、無駄な時間を過ごしたなあ」と、死ぬ間際になって後悔してしまいます。自分の人生を有意義だったと言いたい人なら、この3つを直視しないことは、最もやってはならないことだと思います。自分の人生が無意味だったと思われても構わないという人なら、こんなにめんどくさそうなことには関わらないほうがいいかもしれません。私はかつて、私の知人の重病になってしまった人のお見舞に行った時に、直接本人からこんなことを何度も聞かされました。「残業なんかしなきゃよかった。不調を感じた時にすぐに医者に診てもらえばよかった。フランスやオーストリアに行ってみたかった。やろうと思えばできたのに。しまったなぁ、今更だよな」。言いたい言葉があっても喋ることさえ不自由なのに(俺じゃない)、それでも言わずにはいられない。彼は心から後悔してたんだなと思います。「そんなこと言わずにがんばれ。いつか行けるよ」これが別れの言葉になりました。私は、海外旅行にはあまり魅力を感じません。しかし「行かなくても平気」と、「行けるうちに行ってみる」とは異なる論点です。うっすらと「死ぬかもしれない」と思ってることは、やってみたいと思うものに対する「やってみよう」とする関心の原動力になり得ます。死ぬ間際でさえも原動力になってしまいます(やれもしないのに)。だけど人生の途中に於いては、死を直視するのは見るからに煙たそうだから、やりたいはずのことから逃げてしまい勝ちです。先送りします。いつかは死ぬということからも逃げてしまいます。先送りします。そして、後には怖さだけが残ります。

 

そういう意味で、私には時間がありません。身障者でも健常者でも何歳でも。その一方私は、施設に入ることができた身障者だから時間はいやになるほどたっぷりあります。この「たっぷりある時間」と、「俺たちは時間がない」の「時間」は、ちょっと意味が違います。お分かりでしょうか?ないほうの時間とは、本当にやりたいことをやろうとしてる時間のことですし、たっぷりあるほうの時間とは、テレビゲームにうつつを抜かしてる時間のことなのです。そりゃあ時には息抜きもしなくてはなりません。テレビゲームも時には必要なものかもしれません。息抜きタイムが多目に必要な人もいるでしょう。私が問いたいのは「息抜きの質」です。必要な休息と逃げ、全然意味が違います。

「時間はない」という自覚がない人や、「時間はたっぷりある」と思い込んでる人は、往々にして、無駄なことばかりに流されてます。身障者か健常者か、なんて関係ありません。若いかそれとも壮年老年か、なんてさえも関係ありません。生き物は、例外なくいつかは死んでしまいます。元気に暮らしてる時は大勢(おおぜい)の人に取り囲まれながら楽しく愉快に生きてるけど、最終的には一人ぼっちです。そのことを覚悟しておかなくてはなりません。生きてる時は廻りは賑やかだけど、死んだ後はうそみたいな静寂。「死んでしまったら、意識はないからもういいや」と思うことも間違いでもないと思うけど、覚悟だけはしておかなくてはなりません。「どんちゃん騒ぎの真ん中で、気が付いた時は死んでた」というパターンなら、それはそれで幸せなんだろうけど、そうなることができるとは限りません。ベッドの上で果てしなく長い反省タイムを強いられるかもしれません。本当にやりたいことがわからなかった。逃げ回ってた。

だから私たちは、死ぬことを、最後は一人ということを、やりたいことを自分にやらせてあげるという責任を、常に直視してなければなりません。目を反らしてばかりいると、「後悔」という名の、途方もなく強烈なしっぺ返しを受けてしまいます。老若男女は不問です。直視したくないから、楽なほうへ楽なほうへと逃げてばかりいるのです。

人はすぐに死にます。明日かな、80年ぐらいかな。90年ぐらい生き永らえると肉体の耐用年数を超えます。あちこちに不具合を生じます(認知症など)。目の耐用年数は元々70年ぐらいと聞きました。我々は耐用年数を過ぎた橋を渡ってるようなものです。まさか崩壊なんてしないだろう。ええ、大抵の場合崩壊しません。しかし、直視しなければなりません。いつ壊れても不自然じゃない。死ぬ間際の後悔なんてしたくはないけど、足元から崩れるかもしれない・・・。やりたいことをやることができる時間はあまり残ってないのです。

 

孤独もそうです。人は死ぬ時は一人ずつ。死後の世界があるのかないのかわからないけど、もし死後のが世界あったとしても一人ぼっちです。つれ◯ょ◯でもあるまいに、誰も血の池なんかには付き合ってくれません。死後の世界がなければもちろん一人ぼっちです。人知れずただどこかを、無意識になってしまった私が、幽霊となってたださ迷い続けるのみです。友達がいなくなるのも淋しいから引っ越しするのをやめた。あれやこれやとめんどくさいから。この判断のことは、それはそれでたぶん正しいのだろうけど、自分の一生を直視できてません。引っ越ししたお陰で酷い目に遭った、引っ越してみたら隣人がクレーマーだった、確かに引っ越しさえ思いつかなかったらと後悔します。しかし、引っ越しすることの選択自体は間違ってなかったと思ったほうがいいでしょう(但し、病的に引っ越しを繰り返す人は除く)。後悔はするけれど、もっとビッグな後悔にお見舞いされてしまいます。そしてこのように言われます「そんなこと言わずにがんばれ」空しく響きます。

 

責任からも逃れることはできません。責任というものは、地の果てまでもどこまでもしつこく追いかけて来ます。開き直って座り込んでも見透かされてしまいます。「槍でも鉄砲でも持って来やがれ」などと叫ぼうものなら、本当に槍で突き殺されます。鉄砲で撃ち殺されます。私には、私を幸せな気分にさせる責任があるのです。ひもじい思いをさせないという責任があるのです。本当にやりたいことをやらせるという責任があるのです。本当にやりたいことを、面倒だからといって棚上げにして、どうでもいいテレビゲームに手を延ばす。いいえ、テレビゲームが良くないと言いたいのではありません。「今じゃないでしょ?」と言いたいのです。

 

やりたいことの見つけ方。幼い頃スキだったこと、それはなぜ好きだったの?書き出してみよう。あの時代に好きだったら、今でも好きかもしれない、少なくともよもや嫌いになったわけではあるまい。もう一回やってみよう。何か思い出すかもしれない。はい、めんどくさいから後回し。まさか、何か見つかるはずがない。

 

チャンスはこうやって失われて行くのです。自分が本当にやりたいことがわからない。わからないのではなく、探そうとしてないのです。ギリギリになって、死ぬ間際になって、振り返るのです。今までの人生で一番辛かったこと、書き出してみよう。それはなぜ辛かった。回避するために何すればいい?祖父母との死別。私ぐらいの齡になれば両親との死別。若い頃イジメに遭った。うつで苦しんだ。インネンをつけられて、物陰で寄って集って殴られた。跳んだだけで骨折した。自他共に認める優勝候補だったのに、運動大会で優勝できなかった。自分だけ食あたりした。勇気を振り絞って告白したのに速攻で女の子から「ごめんなさい」。普通に年老いて行きたかったのに離婚した(誰のこと?)。

 

先程申し上げた「お見舞」ですが、家に帰った後になって考えました。お見舞に訪問した俺の態度はあれでよかったんだろうか?「そんなこと言わずにがんばれ」なんて、ただの社交辞令、気休めじゃないか?そう言われたあいつもすぐに気が付いたことだろう。でも、俺もあいつもお互いに常識人のつもり。あのやり取りは当たり前だった。あいつもあいつ。「今更だよな」なんて、なぜ他人にあんなに弱みを聞かせる?俺に何とかしてもらえるとでも思ったんだろうか?こっちが困るとわかってたはず。入院患者はすべからくああいうふうになってしまうのだろうか?考えさせられます、いろいろと。

 

人生を後悔したくないという人は死と孤独と責任から逃げるな、ということは、裏返して言えば、人生を後悔するなんて有り得ないという人は、死と孤独と責任なんて想像するな、ということなのです。逃げ出すことに対して否定するものでもありません。人なんて生き方(行き方)は様々です。

 

こういう話しになると、とかく「自己否定」に駆け込む人がいます。俺はそんなこと考えたこともなかった。俺はできてなかった。だから俺はダメなやつなんだ。これに対して私はこのように思います。

出来なくてもダメではありません。自己否定する必要はありません。人というものは自己否定するのがデフォルトです。否定するようにできてます。そうなるようにできてます。自己肯定ばかりしていると、そこで満足してしまって、成長が止まります。普通の人は、そのあたりをうやむやなままに死んで行くものなのです。うやむやなままのほうが幸せなのかもしれません。私はいやだけど。

 

いやあ、2回言ってしまったことも多かったと思います。わかって貰いたい一心だったのです。長文なのは確信犯かもしれません。次回のブログは「摩訶不思議な心の動き」の予定です。また、音楽バンドの話しです。それではご機嫌よう、さようなら。