こんにちは。お元気ですか?私は相変わらずそこそこに元気です。元気と言えば、最近のことですが、ある日たまたまただぼんやりとテレビを眺めてたら、松田聖子さんがむかし懐かしいヒット曲を歌ってて、それを見てこのように思いました。「おお、松田聖子(わざと呼び捨て)じゃあないか?大大大ファンというほどでもなかった(実は私は、古くは石川ひとみさんや元祖のほうの岡田奈々さん、松田聖子全盛の当時は河合奈保子さんのファンだった)けど、憎からず思ったものだったなぁ。さすがに齡取ってしまったのは、仕方ないし隠しようもないけど、相変わらず元気そうだなぁ。娘さんはお気の毒だったけど本人の見かけは元気そう。「相変わらずそれなりに可愛い見映えだなぁ」なんて感じます。本当はそれほどでもないけど、我々世代にはそう見えてしまう、これは恋それとも愛?それにしても、60過ぎの人があんなひらひら付きの服を着る気になれるものなんだろうか?だけどすべからくスターというものはそう来なくっちゃ。当人の心の内は種々(いろいろ)あるんだろうけど、我々にそれを見えないようにしてくれなきゃいけない、そして彼女の思惑どおりそのように見えない。さすがプロ、と思いました。
松田聖子さんと言えば、本人も語りたがらないし、今となっては真偽の確かめようもないのですが、噂によると、松田聖子さんとZARDの坂井泉水さんはいとこ同士ではないかと聞いたことがあります。あくまでも噂ですが。そう言えば、顔の輪郭だけは少し違うけど、目鼻立ちも眼差しも声の伸びも似てる。しかも歌い出しの音程だけがちょっとふらつく癖(くせ)も似てる。本名も1文字違いでしかも割と珍しい苗字。蒲池法子と蒲池幸子。出生地は離れてるけど(福岡県久留米と神奈川県秦野)、いとこ同士の可能性大有りだと思うのです。
転じて、ZARDと言えば1人組バンド。その頃にだけ見受けられたものです(コロナ前のズトマヨを除く)。ZARDの他には、スーパーフライの越知志帆さん(私は5人組フルバンド時代も知ってる、デビュー直前まで2人組)、TMレボリューションの西川貴教さん、などですが、私にとって初めてでインパクト強烈だった1人組バンドは「王様」です。今聞くとそうでもないのですが、その当時は腹がよじれるくらいに笑いこけました。今は驚くほど何ともありません。不思議です。「王様」が聞かせてくれたのは、いわゆる「直訳ロック」です。時代が時代だから動画なんかはありません。昭和の初期から中期(終戦後)の、いわゆる「大衆音楽創成期」には、洋楽や欧米映画タイトルの多くは意訳でした。太陽がいっぱい、禁じられた遊び、涙の乗車券、青春の影。戦後20~30年くらい経った時、原題重視になりました。「王様」の出現は、音楽業界や出版業界が意訳をやめたちょっと後の時代でした。意訳することを私は「全部だったらダメだけど、部分的ならそれも良いんじゃないかな」と思ってたのですが、その頃は反対派が世の中を席巻してました。そんな時に出現した「王様」は、まるでアンチテーゼの象徴でした。ふうん、そんな歌詞なのか?そんなバンド名なのか?なんだぁ、大したことないじゃん。欧米信仰の気分は、奉る(たてまつる)ほどのことでもないじゃん。と思いました。「王様」の歌声はまるでコメディアンを思わせるように甲高い。だけど、案外ギターが上手いなぁ。俺よりはるかに上手い。これは音楽かお笑いかそれともまさかの芸術か。いろんなことを考えさせてくれる、教えてくれる。そして何より笑わせてくれる。例えば「レッドツェッペリン」。ツェッペリンはわかる、あれはドイツの飛行船。だけどレッド(lead)は?まさか真っ正直な「赤」ではあるまい、スペルも違う。わからんなぁ。だけど「王様」は教えてくれました。それは鉛。そう言えば鉛を訳すとレッドと聞いたことある。鉛の飛行船なんて浮くはずないし、飛ぶはずない。例え話しを面白がってのことだったのか?レッド・ツェッペリンのレモンソングは「鉛の飛行船の酸っぱい柑橘類の歌」。グランド・ファンク・レイルロードのブラック・リコリスは「とっても愉快な鉄道の黒い漢方薬」。ディープ・パープルのハイウェイスターは「深紫の高速道路の星」。字余りも何のその、訳せるとおりに歌いまくってくれました。ちょっと選曲が古いけど、雰囲気だけは掴んでいただけましたか?直訳するのは「本当の意味」をスポイル(疎外)しかねないけど、たまにより良く伝わる。それとも俺は「発想の飛ばし過ぎの人」?「お元気ですか」に始まって→たまたま見掛けた松田聖子→いとこ疑惑のあるZARD→ZARDは1人組バンド→1人組バンドと言えば王様→王様は直訳→直訳の逆さまは意訳で意訳の是非。うん、発展のし過ぎだな。意訳の是非にちなんで、今回のテーマは「テセウスのパラドックス」です。
何千年も昔に造られた、とても巨大な遺産があったとしましょう。宝石で拵えた(こしらえた)首飾りや、金(きん)で出来た指環などの工芸品ではありません。それでは小さすぎます。宗教絡みと思われる人形(埴輪?兵馬俑?)や、暮らしぶりを明らかに表す食器などの焼き物でもありません。これでも小さすぎます(兵馬俑は案外でかいけど)。
それは例えば木造船。貴重な遺産でもあることだし「さあ浮かんで見せてくれ」とまでは申しませんが、折れそうで朽ちそうで脆くて(もろくて)、とても遺産としては残しにくそうです。維持管理が大変でしょう。
そしてその物体が、補修に補修を重ねた挙げ句の果てに、すべてのパーツが新品になってしまった時、その物体を「貴重な遺産」だと呼んでも良いのか?というパラドックス(一見矛盾の事象の試験思考)があります。この考え方のことを「テセウスのパラドックス」、その物体のことを「テセウスの船」と呼ぶそうです。テセウスの船?そう言えば、私は視聴しませんでしたけど、数年前にそんな名前のテレビドラマもありましたっけ?偽物だと咎める(とがめる)人もいるのかなあ。
過去のそれと今のそれは「同じそれ」と呼べるのか?呼んでも良いのか?遺産と呼ぶ資格はあるのか?模造品ではないのか?それを見聞きしようとする人から、見物料や入場料を徴収しても良いのか?これは「素材と姿の同一性の問題」です。補修し過ぎは新品同然。模造品に対して、金を払う価値はあるの?タダならいいけどさ。
私はこのことを、鹿児島県人吉市の肥薩線で実現した観光列車のニュースを見た時に思い及びました。観光列車の客車を牽引する機関車は、50年も屋外で静態保存してた蒸気機関車を、大阪にある専門業者に送って、線路上を長距離走り続けることができるように改造したという代物(しろもの)でした。牽引力も備えます(大井川鉄道のC-10のほうみたいな補機はここでは無用、あれは最後尾からディーゼル機関車が押してる)。専門業者と言っても、それだけで生計を立ててる業者じゃなく、見た目は普通の鉄工所。ただそのことの経験がどこより多いからそこに発注した、ということでした。
静態保存と動態保存。まだ私が子供の頃は「動かせるのは動態保存の時だけ、京都市の梅小路機関区(当時の呼び名)に集結させてる」でした。静態保存とは、単なる飾り物(モニュメント)でした。読んで字が如く、まさに「遺産」でした。今では技術的発展によって、静態保存からの復活さえもできるようになったんですね。鹿児島から大阪なんて遠距離なのになぜだろう?と思ってました。ふうん、やれる業者か。だから大阪なのか?
鉄道ファンならわかります。あれは、大正時代に製造された名機の「8620型蒸気機関車」です。輸入機関車の8600型(輸入した台数はたったの3両)をお手本にして国産機関車として作ったのが8620型。これが安価で案外使い勝手が良くて(火入れが早い、登坂力がある、フランジが深すぎないから動輪が空転しにくい、など)、軸重も軽いため線路規格の低い支線にも使える。当初は5~6両だけ造るつもりだったのに、地方の鉄道局からの注文殺到で500両以上製造しました。輸入機関車のなんと30分の1の価格だったのです(ぼったくり)。鉄道用機関車の大量製造なんて日本初のことでした。今から100年以上前のことです。だから文化遺産的な価値があるのです。もしも走行中の姿を今でも見られたら、1両だけでも貴重です。観光列車に仕立てたら千客万来だろうなぁ。なんせ100年前の「名機と誉高き機関車」だもの。
だけど、テレビでは映してました。ボイラーや煙管は勿論、動輪やクランクシャフトやピストンシリンダーも、走行できるためには全品新品に交換必須。その上更に、ゆがみのために台車も新品交換必要と判明。炭水車も機関車本体の外枠も、雨ざらしの静態保存のせいで錆び錆びだから使えない。運転席の計器類も勿論全部交換。コナンじゃないけど、走るためなら「見た目は遺産、中身は新品」です。走るためには仕方ないけど、それは、応募して抽選した挙げ句に、金を払ってでも列を作って乗るものなのか?
だけど私はこれは「遺産か新品かの二択問題」ではない、と思います。姿だけ貴重で素材は全然違っても、素材だけ貴重でその姿は見るも無残に朽ち果てていても、「へえー、そんなものがあるのか、あったのか」と、ただ感心していれば良いのです。
例えば、テレビを見てる時「ああ、またいつものくだらない芸人が、いつも通りのくだらない芸をやってらあ」と思ったとしましょう。冷静に見れば見るほどくだらないです。でも、そんなことは演じてる本人も百も承知。たぶんくだらないと思われてるに違いない。ならばなぜやる?それは「笑って貰いたいからやる」のです。笑ってる人を見るのが好きなのです。それがもし自分の言動のせいで笑っていれば、当の本人、さぞや嬉しかろうと思います。言わば「覚悟と決心」があるのです。
それ(テセウスの船)を受け取る側も、ただ笑っていれば良いのです。無理してひねくれなくても良いのです。余計なことは考えないでただ素直に笑っていれば良いのです。難しく考える時じゃないと思います。リラックスしたいという目的こそが成し遂げられるべき時です。
これを今回のテセウスの船に当てはめても同じです。たとえ素材が違くても、ただ笑っていれば良いのです。その姿を見て、ただ感心していれば良いのです。目的こそが大事。知的好奇心をくすぐる、という。たとえ素材が違くても、その姿を見ただけで「ふうん、そんなものがあるんだ」。知的欲求が満たされる契機になります。だから金を払うのです。だからただ笑っているのです。
結論、テセウスの船を見学した私は見学料有料でも良い。文明文化の変遷や方向性を教えてくれるから。そう、8620型蒸気機関車は、100年前の文化の象徴なのです。自分の知的好奇心を満たしてくれるから。いやむしろ、追加料金も差し出したいとさえ思います。追加料金?年貢とはちょっと性質が違うな。
次回のブログは「なぜ南極上空を飛行機は飛ばないのか」の予定です。それではご機嫌よう、さようなら。