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長過ぎね?俺の随筆(その36)『親切な虫はなぜ滅びない』

長過ぎね?俺の随筆

こんにちは。そして、新年明けましておめでとうございます。今年も宜しくお願いいたします。新しい1年も(1年こそが)良い1年になるといいですね、お互いに。あなたはお元気ですか?私はお陰様で元気です。過ぎ去った去年1年も振り返ればおもいで(わざと平仮名にした)に溢れてました。私にとって最大のおもいでは、コロナも終わったことだし、母親に3年ぶりに会いに行ったことでした。顔を見るため見せるためだけの目的で、介護タクシーを仕立てて(入場手続きはこの施設のプロ野球三振タイガースファンのアレ課長におんぶして手伝ってもらったけど)単独で多治見の老健Bに面会しに行ったことが忘れられないおもいでです。母親にはいつまでも健康で長生きしてほしいな。俺も一人息子として、たまには顔も見せなきゃならないな。コロナ以前はあちらから来てくれたけど、俺の長男も足としてはアテにはできなくなってしまったし(いろいろ諸事情あります)、本来はこっちから出向く(でむく)もののはず。だから機を見て行ってきました。老健Bから予告されてたとおりに、面会も「屋外屋内のガラス越し(俺が屋外)」で音声遮断、携帯手渡しもNGで事前打込みしたメッセージもパァでした。高齢(90過ぎだけど頭は確か)の母親と、生き続けられないほどの医療事故に遭ってもう10年の私と、どっちが先に滅亡するのか知らないけど、このような話しはなぜか心に堪えます。

生まれて初めて相撲観戦に春日井市総合体育館までこの施設の人に連れてって貰ったことも印象に残ってます。実は私は中日ドべゴンズファンで通ってて、プロ野球も確かに好きですが、相撲のほうがもっと好きなのです。ぶつかり稽古を間近に見た迫力、申し合いという勝ち抜き戦みたいな稽古で勝者に群がる若い衆、非番の行司が務めるという場内アナウンスで噂に違わず力士の顔と出身地と所属部屋を暗記してるとわかること。呼び出しさんの張りの溢れる声、存在感。どれもテレビの画面だけではわからないことばかりでした。これも感慨深いおもいでです。今年はどういうことがあるのかなぁ(生存してたら)。それでは早速ブログを書き進めてみましょう。今回のテーマは「親切な虫はなぜ滅びない」です。・・・・親切な虫はなぜ滅びない?・・・日本語として何か不自然だという気がするなぁ・・・。親切な虫?なんだそれ?「もしもし、落としましたよ」とハンカチを拾ってくれる虫?

滅びない?「ない」と断定するということは、存在するのが前提?まあまあここは冷静に。

 

あなたは「ジャイアン主義」と言われるものをご存知ですか?アニメドラえもんの登場人物ジャイアンの名セリフです。

 

「俺のものは俺のもの、人のものも俺のもの」

 

この言葉を聞いた時、私は「上手いこと言うなぁ、キャラづくりの副産物とは思うけど、幼児向け漫画のセリフだとは侮れん、(真逆の意味も含めた上で)人間を含めたありとあらゆる生き物の生き方を指し示しているのかも知れない」と思いました。

 

自分に良かれと思ってのみ働く。自分が生き抜くためだけに働く。他人の事はどうでもいい。これを「利己的な生き方」と呼ぶことにしましょう。

 

一方、利他的とは「自分の事なんかどうでもいい、他人の利益が優先、他人のために働く」。一言で言って「他人に親切」です。他人に親切な生き方です。

 

あなたは「働き蜂はオスかメスか」をご存知ですか?ありさん🐜のことでもいいですよ。ここではその狂暴さを強調するために敢えて「蜂」に限定させていただきます。最近はテレビで取り上げられることも多くなりましたから、あるいは既にご存知のことでしょう。働き蜂は全てメスです。女王蜂も当然メスです(働きアリでも同じこと、雌ばかり)。卵の時は最初から女王と平民に区別されてたわけではありません。遺伝子的要素発露がより色濃く反映された個体だと選ばれたのです。1匹だけが女王になって、残りはみんな働き蜂になりました。食べ物だけで変わるのです。働き蜂と言われるくらいだから働くことしか知りません。働いて働いて働き詰めです。その労働内容は多岐に渡ります。巣の造営と拡張と保全、身辺警備と侵入者への攻撃、エサとしての蜜集め、子供やご主人様への給餌(きゅうじ)。これらを全て役割分担してやり続けるのです。勿論無報酬です。雑魚寝できる部屋を与えられるだけです(寝るのかなぁ、たぶん寝る)。働き蜂は、自分の身分が働き蜂に決まった瞬間から利他的に働きます。卵を産める機能はその時既に失われてます。女王蜂は、喰っちゃ寝喰っちゃ寝の 「選ばれし者の究極の利己的」 生活なのに、その瞬間も働き蜂は働き詰めです。狂暴だというイメージしかありませんが(あながち間違いでもないぞ)。でも働き蜂たちはある意味では「種全体で利他的に行動してる」とは言えないでしょうか?蜂は他人のために働くのです。言わば「親切な虫」です。親切な虫たちのお陰で女王蜂は卵を安心して産めます。親切な虫たちのお陰で巣という名の基地も安定的に運用されます。野原の花は蜜を集めて貰えるから咲いた甲斐があります。人も熊も蜂蜜にありつけます(ほとんど横取りだけど)。集団が生き延びるためだけに一人一人が助け合って生きてると共に、ついでに他の生物にも恩恵を与えます(意図してないと思うけど)。

 

利己的(自分勝手)と利他的(他人に親切)と比べると、「生きるため」には圧倒的に利己的が有利だと思います。むしろ利他的ならば滅びてしまうのではないかと思います。

ダーウィンの「進化論」でも「動物も昆虫も植物も生きやすいほうに進化する」と教えてくれます。キリンさんの首が長くなったように(伸ばそうと意図したわけじゃないけど)。ウサギさんの耳が大きくなったように(長くなろうとして長くなったんじゃないけど)。ネズミさんが高速で走ることができる体になったように(捕食者の手から逃げることだけが目的)。逆に、生きにくい遺伝子はやがていつの日か淘汰されるのです。

 

でも、なぜ蜂は絶滅する気配がないのでしょうか?象の仲間、狼の仲間、鳥の仲間、魚の仲間、我々は幾つもの種の絶滅を目撃して来ました。それがもし人類による乱獲のせいだとしたら、と、自責の念に囚われ(とらわれ)ます。絶滅危惧種・準絶滅危惧種の指定とは、こうした気持ちなのでしょう。人類のせいばかりでもないんですけどね。でも我々が「もしかして俺のせいかしら」と怖れ続けてるのだけは確かです。

本題に返って、「親切な虫」が絶滅してしまわないのはなぜでしょう?親切だからといって、神様がお目こぼししてくれるわけではありません。しかも立場が弱い利他的は利己的の格好の餌食です。

だけど利他的の蜂は滅びません。滅びないことが種の保存のために最も有効なのです。力を合わせて生き抜く、それが「蜂の生きる道」なのです。 そして自分は気が付かないうちに利他的に行動する。それが進化なのです。それが種の保存なのです。そして、働き蜂は永遠に働き蜂のままです。

それでは、蜂の進化のゆくすえはどうなってしまうのでしょうか?先程から何回も繰り返してるように生物ならば必ず進化するはずです。種の保存とはどうしても進化(時と場合によっては退化も)がついて来てしまうものです。

まず最初に私はこのように考えました(仮説を立てた)。「利他的利己的のせめぎあいは、巣単位で起こってるのではないか」と。利他的が圧倒的不利にも関わらず滅びることはないということは、個々の比較ではなく集団で比較するべきなのではないか?その巣ごと、住んでる全員が利他的なんじゃないの?利己的な女王様とうまくバランスを取りながら生き抜いているのではないか?

でもこの仮説でも、働き蜂が働く理由の説明にはなりません。「この私はやがていつの日にか滅びる」と思っていたら、その時私は真面目に働く気にならないと思うのです。滅びるとわかってるわけではありません。言わば「心の声」で「貴様は滅びる」と言われるのです。やる気消滅。その上、少なくとも女王蜂1匹だけは利己的であって、その他全員が利他的だと、やがて利己的に凌駕(りょうが)されることでしょう。徐々に利己的な個体が増えてしまうに違いありません。ひとつひとつの巣の中だけでも。

でも決してそのようにはなって来ませんでした。その事実に鑑みて、この仮説は立証失敗でした。

 

個々でも利他的になって行くのではなくて、巣単位でもないとしたら。

 

私は、種の保存なのに「個体」を中心とした考え方が間違いなのではないかと考えました。種の保存をしたがってるのは、生物の個体ではなく、巣単位でもなく、遺伝子なのです。遺伝子にとっては、個体が死のうと死ぬまいと、利己的に振る舞おうとも利他的に振る舞おうとも関係ない。巣単位で栄えようとも滅びようとも、知ったことじゃないのです。自分さえ繁栄することができたら、自分さえ進化することができたら、DNAさえ受け継いで貰えたら、自分以外のことなんてどうでもいいのです。「死にたくない」という生体の本能を巧みに利用してるだけかも知れないですね。そりゃあ、個体が死んでしまったら、自分も生きられないから、少なくとも個体だけはある程度は生きていてくれないと困ります。それでないと継承も進化もできません。自分の継承進化がしやすい形だけを望みます。その形が「親切な虫」なのです。遺伝子の手によって、働き蜂は利他的に振る舞うように予め(あらかじめ)プログラミングされているのです。だから親切な虫は滅びません。むしろ増えます。個体のその後は遺伝子にとっては知ったことではありません。責任はありません。

 

生き物の生体は、遺伝子のタクシーだと思います。単なる乗り物です。タクシー乗り場で待ってさえいれば定期的に来てくれます。天変地異でも起きた時はフル稼働(台風襲来時の帰り道みたいな)して台数も減るけど、時にはお客が居なくても走ります。金さえ払えば乗り換えも思いのままです。乗り捨てもし放題です。

 

私たちにとって、己の生死は何よりも大問題なのですが、遺伝子にとっては「自分さえ生き延びやすければそれでいい」。その、最も生き延びやすい形が「力を合わせて生きる親切な虫」なのです。遺伝子は我が儘ですね。

 

今回はここらへんでお開きにさせていただきます。次回のブログのテーマは、虫並びで「ちょうちょの真っ直ぐ」の予定です。それではご機嫌よう、さようなら。