こんにちは。お元気ですか?お元気でお過ごしのことと存じます。私もお陰さまで相変わらず元気です。
いきなりですが、ちょっと前の新札発行開始のニュースは覚えてますか?昔のことなのではっきりと記憶してないのですが、確か私にとってはこれが人生3回目の新札への切り替えだったと思います。でも、前回も前々回もこんなに大きなニュースではなかったと思います。「知らせとくか?」というようなスタンスだったと思います。こっちも「流れて来るというなら聞いとくか」の程度だったと思います。でもそのインパクトは私にとってはけっこう大きかったです。前回のお札変更は、聖徳太子が福沢諭吉、伊藤博文が夏目漱石、新渡戸稲造が樋口一葉。?新渡戸稲造って聞いたことはあったけどよく知らんかったなぁ。樋口一葉になって、お札のシンボルマークの髭は?髭面じゃないと何か変だなぁ(実は印刷しにくいのを狙った偽造防止とテレビでやってた)。髭面じゃなくなっただけで、こりゃまた随分人間が軽めになったもんだ、と思ったものでした。年令のせいか、なぜか二回目のほうが心に残ってます。一人は、歴史上の偉人(今は空想説有力)が、俺にとっては縁もゆかりもない都の西北大学の創設者?一人は明治維新の仕上げの立役者が、明治時代の小説家?もう一人が東北地方の人格者が、また明治初頭の文学者でしかも女の人(読んだことない)?名前だけは知ってるけど、特別に馴染みはない。なんでこの人たちなんだろう?発行した人と使う人の気持ちの乖離かな?と思ったものでした。券売機の更新は伝えられたけど、今ほど深刻ではありませんでした。「人間もデザインも軽くなった」という感想は、今も昔も一緒です。お札の更新は今回が最後かも知れないな、と思いました。あ、そうか、俺には関係ないか?どうせその頃にはもういない。・・・・こんなことばかり考えてるからダメなんだ。・・・だけど、ダメって何がダメ?
それでは今回も長過ぎるブログでも書いてみます。タイトルは「サボるやつがいないとみんなが滅びる」。楽しんで読んでいただけたら嬉しいです。
かつてのブログのことです。わりと最近だったかな。たしかあれは第36回のブログに掲載させていただいたことだったかと思います。「親切な虫はなぜ滅びない」というタイトルにて、親切な虫、すなわち「働き蜂」のことについて自説をご紹介(一方的な展開、かな?)をさせていただきました。今回はその続編です。「サボるやつがいないとみんなが滅びる」というテーマで考えてみたいと思います。サボるばかりで働かない働き蜂は群れのためには必要だと私は思うけど、なぜ必要なのか?について考えてみたいと思います。
働き蜂たちは今日も、役割分担しつつ無報酬で働き続けてます。働き蜂たちが一生懸命にあちこち飛び回ってる様子が伺い知れます。だけど実は、人の目(人?)に着きにくい木陰でサボってるやつが結構たくさんいるそうです。ひとたび巣から飛び立ったら、どこで何してようとわからないですもんね。私もかつては企業の営業マンでしたから、胸に手を当てて振り返ると・・・うっ、あの喫茶店の常連だった・・・えっ?身に覚え?あるかなーないかなー(すっとぼけ)、もうこれ以上は黙秘します(犯罪者?)。
例としては、働き蜂よりも「働きアリ」のほうがわかりやすいだろうと思います。観察しやすいです。しゃがんだ姿勢でじっとして、動き回るアリたちを観察してると、ただ闇雲(やみくも)にうろうろとほっつき歩いてるやつが結構たくさんいることにすぐに気がつきます。これを口汚い言葉で言えば「働くフリしてサボってるやつ」。働きアリの名の風上にも置けないやつです。働き蜂も同じことです。そして営業マンも同じです。
ある調査によるとその数は案外多く、働き蜂や働きアリ全体の約2割がこれに該当するそうです。
ええっ、2割もサボってるの?多くない?
だけどこれを聞いて私はこう思いました。もしも彼らがいなかったら、この巣は近い将来起きるであろうアクシデントによって絶滅してしまうんじゃないか?。そうです、私は「密かなるサボタージュ応援団」です。自分のことはおいといて。
聞くところによると(何かのテレビでやってた)、他所(よそ)から「一生懸命働く働き蜂」のみを連れて来て、そのタイプだけで集団を形成しても、そのうちの約2割が働かなくなってしまうそうです。
わざとそうしてるのかな?と思ってしまいます。
・・・そう、わざとそうしてるのです、2割はサボる、そういう比率になっちゃうのです。平常時はただほっつき回る、という名の役割をこなしているのです。誰かに指示された、というわけではありません。
彼らに与えられた使命とは「緊急時の駆け付け要員」もしくは「緊急時の通常稼働場所の補充要員」です。
駆け付け要員についてですが、東日本大震災の当日には、警察と消防の不足が叫ばれましたよね?「あの時すぐ来てくれたら命だけは助かったのに。そのせいで行方不明だ、人手が足りないなんて・・・」。わかります。肉親が行方不明・・・辛いでしょうね。だけど、本当に不足?手が回らなかったんじゃない?その1人のところに行けなかったこともわかります。それどころじゃなかったんだろうな。蜂の世界でも同じです。緊急時の動員要員は許される限りに多ければ多いほうが望ましいです。その適正数が2割なのです。
災害に見舞われた後、つまり事後処理の時についても考えてみました。片付け要員の不足で、テレビを見ていてもヤキモキしましたよね?人手が足りない、なんて。私も行きたい。しかし、日本中からボランティアさんが集まるのを見て、「もうこれでやっと安心だ、でも俺も行きたかった」と思いました。生活もあるから、何も考えないで飛び出したら周囲に迷惑掛けるなとも思いました。その頃私は既に「シングルファーザー」。家には、二人の息子と年老いた母親がいます。動けなかったです。
コロナの時には「医療現場の逼迫」が叫ばれましたよね?緊急時なのにベッドが足りない、医者も看護士も足りない。医療現場は崩壊し、医療従事者たちは己の暮らしの犠牲を強いられる。
医療業務はサービス(無償)じゃなくて、営利事業です。「金儲け」だとあからさまには申しませんが、たしかにコストがかかります。レスキューも無償じゃありません。国が市が、黙って払ってくれているのです。いわば「金の問題」です。
だけど、人間社会は、蜂の社会より複雑だと思います。蜂は本能だけで動けます。コストは関係ありません。それに対して人間社会は、人間の様々な思惑が交錯します。金を得たい。費用対効果も考えてしまう。褒賞(ほうしょう・誉めて欲しいつまり名誉)が欲しい。役割分担も細分化。自分の範疇だけで精一杯。余裕も休息も欲しい(本当はミニマムでもいいけど)。思惑の数だけ複雑化します。蜂の巣も立地条件は過酷だと思います。朽ちた倒木の幹、倒壊寸前の小屋の屋根裏、崖っぷちの岩の下、苔むす大地の地面の中、いずれも湿度が高いところばかりです。卵や幼虫をお世話する係の働き蜂は、高湿だからそれどころじゃないはずです。餌を集めて来る係の蜂も、こう考えるはずです。俺は働かなくてはならない。
自分が働かなくても自分の所属する集団がひもじい思いもせず維持できる、とは思わないでしょう。動員を求められても「それどころじゃない」と思います。返す刀で「行ってあげたいけど、行きたくても行けない」などと言われようものならもう押し黙るしかありません。
蜂の巣は営利団体ではありません。だけど生活環境は過酷です。待ったなし。だから2割。人間界はアリの社会より複雑だから、サボる理由もひとつじゃない。休息もある、「行ってこい」と言う上司への反発もある、費用対効果で今俺が1軒余分に訪れてもいかほど売り上げに貢献できるだろうか、俺が今骨身を削って働いても喜ぶ人は誰だろう、俺が果たしてる範疇は限定的だから今更俺1人が機能しなくても大勢には影響ないだろう、誰にもバレやしないさ。だけど、「その1軒」が大事なのです、サボってる」という精神的負担も半端ないです。俺みたいなやつを如何にして1人でも減らせるか、が「組織の出来の善し悪し(よしあし)」なのです。
ところが、蜂の社会ではどうでしょう。コストは関係ありません。環境は待ったなし、本能のままに動けますから他の要因を考える必要がありません。コストが関係ないから、予備要員を過不足なしに用意しようとする、それが「2割」なのです。
働かない働き蜂、闘わない兵隊アリは、確かに存在します。だけどそれは「必要だから存在する」のです。サボってるなぁ、その指摘はどこからどう見ても正しいでしょう。だけどそこには「生きていくための必須事項」があるかもしれないのです。サボるという名の悪行と、サボるという名の善行。わかっているやつだけがサボることができるのです。
はいはい、俺はわかってましたよ(ホントに?)。あっ、誰でもそういうな、わかってた、って。あなたはどうでしょうね。
いやぁ、今回も他の回に負けず劣らず長くなってしまいました。これからもますます長くなるよう頑張ります。あ、逆?。次回のテーマは「げんちゃんは腰痛にはならない」の予定です。それではご機嫌よう、さようなら。