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長過ぎね?俺の随筆(その56) 『情動感染』

長過ぎね?俺の随筆

こんにちわ。お元気でしょうか?私は気持ち的には元気ですが、肉体的には「おやっ?」と思う部分が一つだけあって、ちょっと悩んでます。自分自身の心臓の早鐘打ちに驚いてます。平常時になぜかドキドキバクバク、トイレに座ってるだけでドキドキバクバク。踏んばろうものならもう大変。頭の中も血圧が上昇した時みたいな圧迫感。飛蚊(ひぶん・ホタルが舞うような真っ昼間の幻覚)がチラチラ。これは単なる老化?それとも死期の予兆?恐いことです。だけど、無駄に恐がってもしょうがない。平常心平常心。

もう季節は夏の終わり(だったはず)。やっと涼しさを感じられるようになりました。だけど、秋はもう数年前に死んでしまったため、そこらへんから聞こえて来る音は「チーン」!(仏壇のおりんの音、お亡くなりになったのは俺じゃなくて秋だったのね)。だから、次はいきなり「寒い冬」です。かつての秋の風物詩、コオロギの声はもう聴きましたか?姿は見ましたか?本来は遅すぎる話しだけど。

地球で一番種類が多い生き物は、動物ではなく植物でもなく昆虫だそうです。きのこやウィルスや細菌類は、未だに見つかる「新種」が多くてわかりません。昆虫なんて陸上だけなのに(海中にはいない)。この世界は「虫の惑星」なんだなぁ。そんなに数が多いなら、昆虫食も当然の成行きなのか?昔はイナゴの佃煮、この地方限定のヘボ(クロスズメバチの幼虫)の佃煮、の二種類ぐらいだったのにな。現代ではコオロギの粉末。食ったことないけどたぶん美味しいよ(美味しいなんて無責任極まりない。実は喜んでは食いたくない)。鳴いてるのは俺の食いもんだったのね。四の五の言わずに、さあ今回も長過ぎるなんたらを書き始めようと思います。今回のテーマは「情動感染」です。

 

今、私は不思議に思っています。もはや夏の風物詩の「熱中症の疑いの救急搬送者」に関することです。風物詩と言う程ほのぼのとはしてないけど、実際に命の危険さえあることだし、熱中症なんて誰にとっても一大事に違いありません。来年の夏は、私も気をつけたいと思います(生き続けてさえいられたら)。不思議なこととは「人間はなぜ、加齢するに伴って暑さ感覚に狂いが生じるのか?」です。言い替えると「昭和生まれの年寄りは、なぜこんなに暑いのにクーラーを点けたがらないんだ?熱中症で死ぬぞ。高齢者のくせして、身の程知らずか?そんなにお迎えさんに会いたいのか!」。若い人から見ると「違い」じゃなくて「狂い」です。頓珍漢な音で奇妙なさえずり連発、これは調律の狂いです。

齡取ると「クーラーなんて要らない、クーラーなんて点けたくない」と言い放ってしまうのです。そして、相手してくれた人に「昭和の人はホントにもう…」と笑われておしまいです。点けたくないその理由は、決して電気代が勿体ないからではありません。年齡を重ねると、肉体の「耐熱性のボーダーライン」が僅か(わずか)ばかりではあるが知らない間に上昇してしまうのです。その代わり「体感温度のデンジャラスゾーン(危険予知領域)」がどんどん狭くなってしまいます。「あっ、と思った時はもう遅い」これが熱中症の起因です。例えば、若い時分には外気温35度で「あれっ?今日はいつもより暑すぎる、いつもと違う。ヤバいかも」。比較対象が目の前になくても違いが明確に存在するのです。しかし、年寄りになるとこの辺りがぼんやりして来ます。若い人なら外気温36度で「もうこれ以上暑くなったら、逃げ出したほうが良いな。いきなり逃げたら周りに迷惑かけるから、さあ、今のうちに逃げ出す準備に取りかかろう」、外気温38度で「今すぐ逃げよう、何もかも捨てて」。それに対して年取ったら、外気温38度で「暑いには暑いけどいつもなら平気、耐え抜いたこともある。それに何も逃げる準備をしてない。まぁ大丈夫さ」、外気温39度で「あれっ?目の前が真っ白だ」。いつの間にかアスファルトに寝てます。声も出せません。微動だにできません(今の俺みたい)。気が付いたら倒れてます。そしてゆっくりと意識が遠ざかって行きます。齡取ると、寒さのほうがその身に応えます。寒さのほうが苦手に思えます。暑い最中(さなか)に「もしも今、寒さに襲われたら」なんて想像します。そして出た結論は「寒いほうが嫌」。少しぐらい暑くても、寒いより遥かに良いかな。ちょうど良いかな。勘違いしてしまいます。そのように思ってしまうのです。寒さを嫌うこの感覚、おわかりでしょうか?高齢者ならわかるはず、わからないあなたはまだ若い?周りの人は、年寄りの「ちょうど良い」の発言をを鵜呑みしてはなりません。この気持ち、齡取ったからこそ感じる気持ちです。本当に心底から大丈夫と思ってるのです。そして当面は本当に何ともないのです。皆様、気を付けましょう。声をかけてあげてください。若い頃は何とかなった、今は何ともならないのです。若くはないのです。…と言いつつ、今日もまた「こんなのへっちゃら」を繰り返す私。実は私は、冷房がいやなのではなく、風が嫌いなのです(窓の開放は悪、エアコンの吹き出し口も悪。扇風機が最悪)。

ところで、今回は、そんなことを言いたいのではありません。「伝染らない(うつらない)はずなのになぜか伝染る(うつる)ことがある」と言いたいのです。

 

もしかしてこの「高温障害の熱中症」が小中学校で発生してしまった時は、なぜ先生をも含む複数人で集団発生してしまうのでしょうか?「あの学校で一人だけではあるが熱中症と思われる生徒が出た」なんて、なくはないけど滅多に聞きません。畑で熱中症によって倒れた老人なら、たった一人でもニュースになることもあるのに。

私がまだ小学生の頃、担任の先生が呟いた言葉が今も耳について離れません。それは、今となっては使う人もない極めて古い名古屋弁丸出しで語られました。彼曰く「ぜんこーしゅーきゃーやったと際が(全校集会をやった時)、貧血と日射病で倒れてまうのは(倒れてしまう人は)、なんでかしゃんけどようけおる(なぜかは知らねどたくさんいる)。うつってまうでかんわー(伝染するから恐い)」。日射病とは、当時の言葉で熱中症のことです。でも、伝染性の病でもないのになぜ伝染る(うつる)?これを聞いてから私は、長い間「貧血と日射病は伝染病だ」と信じてました。担任の先生が冗談半分で「おみゃーさんとらあ、わしを信じやあ、嘘つけへん(君たち、俺を信じろ、嘘はつかない)」と言いました。そして信じたのです。まだ幼かった私には冗談は通じませんでした(まだ幼かったから、かな?今でもじゃないの?)。私は感染すると嫌だから、前に並んだ子が自分めがけて倒れ込んで来た時、助けようとする手を引っ込めました。引っ込めたほうが良いと確信してました。(俺がまだ厨二の頃、無意識のうちになぜか引っ込めた、今でも後悔して止まない、服部君ごめん)。このように熱中症は「この場面で倒れちゃならない」と思えば思うほどおかしくなります。

 

これも昔のことですが、誰か一人が蚊に食われて痒いと思っただけで、訴えてもないのに、みんな痒がったものでした。俺もなぜかもぞもぞしました。自分でもなぜだかわかりません。

 

欠伸(あくび)は伝染る(うつる)。泣くのは伝染る(もらい泣き)。子供の頃は、トイレに行くのにも、必ず誰かと連れ◯ョン、(友達作りのきっかけにはなるから悪いことばかりでもない)、遠足の観光バス内の嘔吐は伝染した。人呼んで「もらいゲボ」。(大人になってから思ったことだけど、タイヤの更に前なんて大揺れするのに、一番前に連れて行かれたのは腑に落ちない。だけど「みんなに見せない」という効果はあるのも事実)。どうやら大人になるにつれて、だんだん薄れて行くものみたいです、もらい泣き以外は(涙は逆に大人になってからのほうが流れたな)。

この施設になぜか認知症の人はいません。もしかして認知症かもしれないと疑われてる人はいるけど、他所の施設から来た私の感想は「認知症はあんなもんじゃない」と思います。迫力が大違いです。俺もを含む年齢分布に鑑みて「一人や二人ぐらいいても当然」と思わなくもありませんが、予備軍はいるけどなぜか侵攻(進行)して来ません。しかし、一人そうなってしまうと「そうか。俺もああいうふうになっても良いのか」と、お手本のようになってしまいます。居たら大変、平穏な日々が訪れることはもう決してありません。この施設に於いても、身障者は殆ど笑いません(例外あり)。みんなを見てて「ああ、俺も無理して笑わなくてもいいんだな」と思うのです。私もそうです。笑える人は、介護士さんに好まれやすいと思います(だけど俺は今日も恐い顏)。

 

プロ野球チームの「強い・弱い」は何で決まるのでしょうか?戦力的に著しく異なるなら、素人の私にでさえ順位予想できそうですが、プロの解説者さん達を含めて「俺の順位予想は当たった」という事例を、ほとんど私は見掛けません(皆無でもないけど)。例えば私の好きなドベゴンズは、全体的にはちょっと他チームよりは総合的な戦力は劣るけど、1人2人は遜色ない投手もいます。ちょっと他チームよりは劣るけどそこそこ打てる打者もいます。中心になり得るホームランバッターもいるにはいます。彼等が活躍すればあるいは優勝だって夢じゃない。だけどやっぱり現実は夢。それでは、何によって強弱がつく?強いチームは明らかに強い。逆点勝ち連発、とりわけマジックナンバーが出た後は連戦連勝。弱いチームは1点差敗け連発、たまにアクセントみたいにボロ敗け。悲しいくらいにめった打ち。思わず浮かんだセリフは「ごめんなさい、もう抵抗しません」白旗掲揚(トムキャットさん?)。

それは「そういう空気がチームの中に流れてる」ためです。明るく振る舞えば良い、というものではないけれど、暗鬱に振る舞おうものならますます増長するだけです。上層部の人が厳しく接すれば当面の効果はありますが、それは本質的な解決にはなってない。だけど、一人感じ取ると皆感じ取る。プラス要因が加速するより、マイナス要因のほうが伝播しやすい。弱いチームはとことん弱い。手を尽くしても弱さから抜け出せない。そのうち、あいつの指導力が問題だ、と囁かれます。ゴタゴタなんてあろうものならそれどころじゃない。打ち消しどころかマイナス要因」思いは伝染る(うつる)のです。

個人戦ならいざ知らず、チームの強弱さえ伝染するの?これは「空気を読む」とは確実に違います。読むのではなく、空気のほうから流れて来るのです。知らないうちに吸っちゃうのです。「読む」なんて積極的行動を伴いません。気持ちの問題なら、目には見えないところで揺り動かされることもあるかもしれないけど、体の問題なら心持ちなんて何も関係ないはずです。だけどなぜ伝染する?あたかも機械が風邪引いたみたい。

 

情動感染という言葉があるそうです。気持ちは空気感染するのです。伝染る(うつる)のです。私は「精神的不具合」は伝染すると思います。オウム返ししかできない人が他人の絶叫をオウム返しするようなものです。

 

だけど、「願ったら叶う」とは、明らかに違います。願いには、望みが入ります。病気が治った。宝くじにあたった。健康に過ごせた。「思い」と「願い」は別物です。

 

冬休みが終わった頃の風物詩の段ボール箱入りの温州みかんは、1個カビると皆カビる。これはたぶん本当です。私も目撃したことあります。カビるみかんは決して隣り合わせでもありません。飛び飛びです。でも、飛び飛びなのはなぜ?

これはちょっと違うかな?という事例だけど、私は「いやむしろ似てる」と思います。みかんに想いはありません。機械的にカビただけです。しかし私は、情動感染も機械的だと思います。気持ちの問題なのに機械的です。これは情が動いたわけじゃありません。だけど似てます。このニュアンス、わかっていただけますでしょうか?もしかして、このあたりに「情動感染の対策法」があるのかもしれません。私は思うのですが、人生もまた「情動感染」と「情動感染の対策法」のせめぎあいなのかもしれません

 

 

次回のブログは「テセウスのパラドックス」の予定です。それではご機嫌よう、さようなら。